第一部




7.タコ八の歌




 一月二十二日の空襲で若狭町の二高女の仮校舎も焼け落ちてしまった。首里弁ケ岳の電波探知機陣地の構築作業は続いても、授業は中断された。新たな仮校舎が見つかるまでは授業の日は自宅待機となった。同じ日に家が焼けてしまった小枝子は与那原(よなばる)の伯父の家に避難して、その後、作業の日は与那原から首里に通っていた。父親を防衛隊に取られて男手がないので、焼けた家はそのままだった。鹿児島に知人がいるので、もしかしたら、鹿児島に疎開するかもしれないと言っていた。

 一月の三十一日、新しい県知事が沖縄にやって来た。その日、千恵子たちブラスバンド部の四年生は作業の日だった。急遽、県庁に行けと言われ、先に集まっていた下級生と合流した。どこから集めたのかわからない楽器を借りて、新知事を歓迎するため『愛国行進曲』と『勝利の日まで』を演奏した。亡くなってしまった敏美と国頭(くにがみ)に帰ったままの小百合、久米島に帰ったままの久美の姿はなかった。小百合と久美には何度も手紙を書いていた。返事によると二人とも戻って来たいようだけど、家庭の事情とか、那覇の空襲とか、色々あるらしくて難しいようだった。

 毎日、愚痴ばかりこぼしていた父は島田知事が来てからというもの、今度の知事殿は前の知事とは全然違う。命懸けで来られたという気魄(きはく)が感じられる。ほんとに偉いお人だとやたら褒めて、毎日、楽しそうに出勤して行った。千恵子はチラッと見ただけなので、そんなに偉い人なのかよくわからなかった。ただ、背が高くて眼鏡(めがね)をかけていたという印象しかない。後で父から島田知事が三高の野球部で活躍したと聞いて、野球部ならいい人に違いないと思った。そして、安里先輩の事を少し思い出した。

 作業現場が首里に移ったと聞いた時、もしかしたら、一中の生徒たちもいるかもしれないと期待したのにいなかった。でも、首里への行き帰りに二度だけ、安里先輩に会う事ができた。お互いに回りに友達がいて話をする事もできなかったけど、顔を見ただけでも嬉しかった。晴美が安里先輩の顔を知っていて、澄江や初江に教えてキャーキャー(はや)し立てた。安里先輩の方も友達にヤーヤー言われていて、恥ずかしかったけど嬉しくもあった。その後、澄江が『婦系図(おんなけいず)の歌』の替え歌を作った。

 ♪坂下通れば思い出す
    お千恵、良雄の心意気
   知るや白梅 石垣に
     残る二人の影法師〜

 知るや白梅という歌詞が二高女の校章に通じるので気に入っていた。お千恵、良雄の所は名前を代えて歌われた。晴美と一中の陸上部の先輩、小枝子と二中の幼なじみ、佳代と師範学校の先輩、初江と商業学校の先輩と、それぞれが憧れている男子の名を入れて、キャーキャー言いながら歌っていた。

 澄江だけは好きな男子の事をなかなか打ち明けなかった。そんなのいないわよと言い続けていたが、みんなから責められてとうとう白状した。何と、澄江が好きな人は黒砂糖を買いに行った時、陸軍病院の防空壕で会った谷口軍曹だった。あの日から、ずっと憧れていて、きっと、また会えると信じているという。谷口軍曹は二十五歳位で、年がちょっと離れ過ぎているんじゃないと千恵子たちが言っても、年なんか関係ないわと平気な顔して言い、もしかしたら、奥さんがいるかもと言っても、あの人は絶対に独身よと信じ切っていた。谷口軍曹の名前はわからないので、『お澄、谷口の心意気』と歌われた。

 二月になって新しい仮校舎が見つかった。四年生は松尾山にある知事官舎で下級生は首里だった。知事官舎は前の泉知事が去ってから空き家になっていた。十・十空襲の時、爆風にやられて少し傾いてしまったが住めない事はなかった。新知事を迎えるに当たって綺麗にしたのに、島田知事は食糧営団の理事長宅を宿舎にする事となり、二高女で借りる事になったのだった。ただ、全校生徒を収容できないので四年生だけが利用するという。

「男子中学生はすでに、立派な兵隊になるために通信訓練や戦闘訓練を始めている。女学生も立派な看護婦になって、お国の役に立たなければならない。四年生は来週から看護教育を始める事に決まった」と校長先生は言った。

 看護婦と聞いて、千恵子は喜んだ。自分も姉や浩子おばさんと同じように陸軍病院の看護婦になれるんだと思うと感激だった。澄江は谷口軍曹に会えると大喜びしていた。きっと、運命なのよ、赤い糸で結ばれてるのよと目を輝かせて、うっとりしていた。

 二月五日の月曜から看護教育が始まった。千恵子たち松組はその日は作業だったので、翌日の六日からだった。教官は南風原(はえばる)の陸軍病院から派遣された野口少尉と鮫島軍曹(さめじまぐんそう)だった。野口少尉は東京の人で、背がスラッと高くて格好いい青年将校だった。鮫島軍曹は鹿児島の人で、体つきはごっついが優しそうな顔をしていた。谷口軍曹と川上上等兵も鹿児島生まれで、陸軍病院には九州の人が多いと言っていた。東京の人もいたのかと不思議な感じがした。九州から沖縄に来る人は多いけど、東京から来る人は珍しかった。

 初日は陸軍病院とはどんな所か、従軍看護婦はどんな仕事をするのかをわかりやすく教えてくれた。野口少尉も鮫島軍曹も話上手で面白い人だった。千恵子は姉に負けない看護婦になろうと真剣に話を聞いていた。澄江はちゃっかり鮫島軍曹から谷口軍曹の事を聞き出していた。名前は健次といい、外科に所属している衛生兵で独身だという。澄江は浮き浮きしながら再会を夢見て、澄江に影響されたのか、初江は野口少尉に憧れていた。

 二度目の看護教育の日は大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)だった。授業の前に知事官舎の庭で式典が行なわれた。梅組は作業に出ていて、下級生も首里に移ってしまい、松組の生徒三十六人だけの寂しいものだった。国旗掲揚(けいよう)詔書(しょうしょ)捧読式、必勝祈願と式典は続き、『海ゆかば』をみんなで歌って、いつもなら終わりのはずだった。ところが、校長先生が再び、台上に登った。校長先生の顔色が今朝から暗かったので、何かよくない事でも起きたのかと千恵子は隣にいる佳代と顔を見合わせた。

「誠に残念な事が起きてしまいました」と言って校長先生は皆の顔を見回した。

「二月の六日、一昨日(おととい)の昼過ぎ、久米島の真泊(まどまり)を出港した客船『嘉進丸(かしんまる)』が那覇に向かう途中、敵機の襲撃を受けて沈没してしまいました」

 久米島と聞いて、すぐに思い出したのは久美の事だった。まさか、久美が乗っていたのではと思ったが、慌てて否定した。そんな事はない。久美は役場の仕事を手伝っていると手紙に書いてあった。元気に歌を歌いながら仕事をしているに違いないと思いたかった。

「その船には二十名前後のお客が乗っていて、生存者は船長ただ一人だったらしい。お客の中に十人の学生がいた。残念ながら、本校の生徒もいた」

 校長先生はそこで言葉を切って目頭を押さえた。千恵子は久美じゃないようにと祈った。

「君たちの同級生、上江洲(うえず)」と校長先生が言った時、佳代が「久美‥‥‥」と(つぶや)いて、千恵子の肩にもたれて来た。千恵子も我慢できなくなって、佳代に抱き着いて泣いてしまった。校長先生の話は続いていたが、誰も聞いてはいなかった。皆、シクシク泣いていた。

 その日の授業は救急処置だったが、まったく頭に入らなかった。

 去年の夏、疎開船『対馬丸』が沈没して政子が亡くなり、去年の暮、列車が爆発して敏美と文代が亡くなった。そして、今度は久美だった。平和だったら死ぬはずがない同級生が四人も亡くなってしまった。久美とは十・十空襲の時、学校で別れてから一度も会えなかった。那覇にある祖母の家で、二中に通っている弟と一緒に暮らしていた。空襲の時、祖母を連れて北の方に避難した。しばらくして戻って来ると家も学校も焼けてしまい、郷里の久米島に帰っていた。千恵子たちが何度も手紙を書いて、戻って来いと言ったので、こんな事になってしまった。手紙なんか書かなければよかったと後悔した。千恵子は泣いていて聞いていなかったが、久美の弟も一緒に乗っていて亡くなってしまったという。

 授業が終わった後、千恵子たちは波上宮(なみのえぐう)に行った。波上宮から久米島は見えないけれど、久美が眠っている海を見ないではいられなかった。

 キラキラ輝いている海を眺めながら、「久美、冷たかったでしょうね」と佳代がつぶやいた。

「船はバラバラになっちゃったんでしょ。久美もきっと‥‥‥」その後は言葉にならず、澄江は泣いた。

「う〜み〜ゆ〜かば〜」と晴美が歌い出した。

 小枝子と初江が一緒に歌った。千恵子も歌おうとしたが声が出なかった。歌の通り、久美は水漬(みづ)くかばねになってしまった。あの笑顔はもう見られない。商業学校の男子に人気があって、ラブレターをもらった事もあったのに、十六歳の若さで亡くなってしまうなんて、あまりにも可哀想すぎた。

 みんなで晴美の家に寄って久美の思い出を色々と話した。千恵子と初江は久米島に遊びに行った時の事を皆に話した。楽しかった事を思い出すたび、悲しみは余計に積もって、皆、しんみりとしてしまった。

「ねえ、覚えてる。ガジャンビラの作業の時、西村上等兵が教えてくれた『タコ八の歌』、久美、気に入ってよく歌ってたわね」と千恵子は久美の歌声を思い出しながら言った。

「そう、そう。そういえば、久美が来なくなってから、その歌、すっかり忘れてたわ」

 晴美が懐かしがって歌おうとすると、

「なあに、『タコ八の歌』って」と初江が聞いた。

「あら、知らないの」と千恵子は驚いた。

「知らないわ、ねえ」と初江は佳代に聞いた。

 佳代も知らないと首を振った。その頃、初江と佳代は松組だったので、千恵子たちとは作業の日が違っていた。

「『タコ八の歌』って『のらくろ』に出て来るタコの八ちゃんのこと?」と佳代が聞いた。

「そのタコじゃないんじゃないの、きっと。別のタコよ」と晴美が真面目な顔して言う。

 千恵子はじっと我慢していたが、ついに吹き出してしまった。

「チーコ、どうしたのよ」と晴美がこんな時に笑うなんて不謹慎よという顔して聞いた。

「ごめんなさい。つい、昔の事を思い出しちゃって」

「チーコ、言わないでよ」と初江が千恵子を睨んでから、澄江を見た。澄江は他の事を考えているらしく、ぼんやりしていた。

「わかってるわよ」と千恵子は言ったが、みんなは何の事だか知りたがった。久美だって、きっと知りたいはずだわと言われ、千恵子は白状した。

「初江なんだけどね、小学校の頃、男子たちから『タコのハッちゃん』と呼ばれてたのよ」

 皆が一斉に、初江を見た。

「まったく、もう」と口を尖らせて怒っている初江の顔は、確かにタコに似ていた。笑う場合ではないと思いながらも皆、吹き出すように笑ってしまった。

「そんなの昔の事じゃない。やめてよ、もう」と初江はますます膨れた。「今は久美の事でしょ。何よ、タコ八の歌って」

 笑いが治まると皆、急に真面目な顔に戻った。

「あの歌ね、『湖畔の宿』の替え歌なのよ。高峰三枝子が歌った『湖畔の宿』って発売禁止になっちゃったでしょ」と小枝子が言うと、「禁止じゃなくて、中止になったのよ」と晴美が手を振った。

「とにかく、そんな歌を教えちゃいかんて、西村上等兵、中隊長殿に怒られたみたいなのよ。だから、歌ったのは、あの時だけだったのかもしれないわ」

 小枝子が説明すると佳代が教えてくれとせがんだ。

「そうねえ、久美のためにも、みんなで歌いましょうよ」

 きのう召されたタコ八が
    (たま)に撃たれて名誉の戦死
   タコの遺骨はいつ帰る
     骨がないから帰れない
   タコのかあちゃん悲しかろ〜

 友達と別れて家に帰って来たら、また悲しくなって千恵子は一人で泣いた。父は日が暮れても帰って来なかった。昨夜も部課長会議があったとかで遅かった。小屋の中に一人きりでいるのは寂しくてやり切れなかった。

 二月も半ばになって、悲しみもいくらか和らいだ頃、小枝子が鹿児島に疎開して行った。小枝子は行きたくなかったけど仕方がなかった。母親が家を失ったショックから立ち直れず、病人のようになってしまい、今のうちに沖縄から離れた方がいいと親戚一同で決めたらしい。幼い弟や妹がいて母親だけでは無理なので小枝子も一緒に行かなければならなかった。

 最後の別れを告げようと、港まで見送りに行ったら物凄い混雑だった。あちこちに疎開者の荷物が山のように積まれ、迷子になった子供が母親を呼んで泣いている。敵の潜水艦が出没して危険なので防諜(ぼうちょう)のため出港時間も公表されず、どの船かもわからない。結局、小枝子には会えず、航海の無事を祈るしかなかった。

 小枝子が去った翌日、校長先生から二高女の四年生は(やま)部隊(第二十四師団)の野戦病院に入隊する事が決まったと発表があった。山部隊は一時、二高女に駐屯していた事があり、空襲の後、学校の焼け跡の片付けをしてくれたので馴染みのある部隊だった。山部隊は去年まで嘉手納(かでな)周辺の守りを固めていたが、(たけ)部隊(第九師団)が台湾に出て行ってから、南部の島尻(しまじり)に移っていた。

 二高女と積徳(せきとく)高女が山部隊に入隊し、南風原の陸軍病院には師範学校女子部と一高女が入隊する事になったという。首里高女と昭和高女は首里周辺を守っている(いし)部隊(第六十二師団)の野戦病院に、名護の三高女は陸軍病院の北部分室に、というように女学校の四年生は皆、従軍看護婦になるよう決められた。それと同時に、戦闘訓練や通信訓練を受けていた男子中学生は防衛隊を編成し、戦争が始まれば、鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)となって各部隊へ入隊する事に決まった。

 看護教育の教官も野口少尉と鮫島軍曹は来なくなり、山部隊から派遣された神津(こうづ)見習士官と笠島伍長(ごちょう)に代わった。神津見習士官は大きな体に度の強い眼鏡をかけていた。笠島伍長は小太りで髭面(ひげづら)だった。二人とも美男とは言えず、前の野口少尉と鮫島軍曹の方がよかったのにと千恵子たちは陰口をきいていた。澄江と初江はがっかりして、縁がなかったのかしらと慰め合っていた。







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