第二部
15.東風平分院
古波蔵看護婦は五月三日に日本軍の総攻撃があると言ったけど、それは千恵子たちを励ますための出まかせだった。それでも、古波蔵看護婦の予想は当たって、一日違いの四日の早朝から日本軍の総攻撃は始まった。ただ、千恵子たちが思い描いていた陸海空の総攻撃ではなかった。沖縄守備軍の第三十二軍だけの総攻撃で、本土からの援軍は海軍百機、陸軍七十機の特攻隊だけだった。 千恵子たちは知らなかったが、四月七日、沖縄救出のために出撃した戦艦 日本軍の総攻撃に対して米軍の攻撃は物凄く、千恵子たちのいる八重瀬岳も終日、艦砲に見舞われた。昼間のうちは一歩も外に出られなくなり、炊事場も吹き飛ばされた。幸い、負傷者はでなかったが、これ以上、外にいる事はできないと炊事場は第五坑道の入口付近に新たに掘られた部屋に移動する事になった。敵に煙を発見される恐れがあるので、昼間は炊事ができず、夜の内に炊く事になり、飯上げは昼夜が逆さまになって、夜の十時頃と三時頃の二回になった。さらに、水汲みや食罐、食器洗いも大変なので、お 五日の夕方、千恵子が仕事を終えて寝台にたどり着くと佳代が先に帰っていた。 「疲れたわねえ」と声を掛けて、寝台に横になった。 「チーコ」と佳代が呼んだけど、それに答える元気はなかった。目が自然に閉じてしまう。でも、何かがおかしいと頭の片隅で思っていた。いつも、仕事が終わって帰って来ても佳代がいる事はなかった。勤務時間がずれているので、今、この時間に佳代がいるはずはない。頭がおかしくなって 佳代は確かにいた。荷物を抱えて寝台の上に座り込んでいた。 「佳代」と千恵子は声を掛けた。ぼんやりしていた佳代は千恵子を見た。 「チーコ」と佳代は笑った。様子がどうも変だった。何か思い詰めたような顔付きだった。 「どうかしたの」と千恵子は聞いた。 「あたしね、ここから出て行く事になったの」と佳代は言った。 「えっ」千恵子は驚いて上体を起こした。「出て行くって、まさか、首里に帰るの」 「そうじゃないわよ。 「東風平に分院?」 東風平と言えば、千恵子たちが看護教育を受けた所だった。 「さっき、本部に呼ばれてね。そしたら、米田軍曹さんがいて、東風平に行くって言われたの」 「あの防空壕が病院になるの」と千恵子は聞いた。ここに来る前、注射を打つ練習をした防空壕を思い出していた。 「よくわからないけど、そうだと思う。もう、衛生兵の人たちが先に行っていて、患者さんもいっぱいいるみたい」 「そうだったの‥‥‥」 「あたしと由紀子と幸江とナツと妙子が行くのよ」 「そう‥‥‥えっ、妙子は佳代と同じ第八外科じゃない。三人しかいないのに二人も抜けたらどうなるの」 「誰かが来るって言ってたわ」 「そうなの」 また五人も抜けたら大変な事になると思ったけど、疲労し切った千恵子の頭では何も考えられなかった。 「米田軍曹さんが選んだみたい。みんな、東風平にいた時の四班なのよ。 そういえば、由紀子と幸江は米田軍曹のお気に入りだったのを思い出した。でも、どうして佳代が選ばれたのかわからなかった。 「 「えっ、伊良波さんも行くの」 第六外科にいた伊良波看護婦は上の壕に行ってしまい、最近、顔を見ていなかった。伊良波看護婦が一緒なら、佳代も心強いだろうと思った。 「暗くなってから出掛けるらしいけど恐ろしいわ」と佳代は小声で言った。決して弱音をはかない佳代にしては珍しい事だった。 「この前、包帯洗いに行った時、すぐ側に艦砲が落ちたのよ。艦砲が飛んで来る時って、ピューピューって音がしてからバァーンてなるでしょ。それがピューピューがなくて突然、バァーンと来たのよ。体なんて伏せる暇なんてなかったわ。凄い爆風に吹き飛ばされて、しばらく耳がキーンていって聞こえなくなったのよ。幸い、耳も治って、破片も刺さらなくて助かったんだけど恐ろしかったわ。あと一秒、先に行ってたら死んでたかもしれない。あんなのが飛んで来る中、東風平まで行くなんて考えられない。あたし、まだ、死にたくなんかない」 佳代は震えていた。余程、恐ろしかったに違いない。患者さんたちが死ぬのを目の前に見ていても、自分たちが死ぬなんていう事は今まで考えてもみなかったが、最近は死というものが実感として感じられるようになっていた。千恵子だって至近弾の経験はないけど、何度も恐ろしい目に合って、まだ死にたくない、お願い、助けてと地面に身を伏せながら祈っていた。 「米田軍曹さんが一緒なら大丈夫よ」と千恵子は慰めた。 佳代は力なく笑ってうなづいた。由紀子が荷物を持って佳代を迎えに来た。 「チーコ、行って来るわね」と佳代は寝台から降りた。 「それじゃあね」と由紀子は千恵子に手を振って奥の方に向かった。 佳代は千恵子の顔を見つめて、「もう会えないかもしれないわね」と言った。 「何を言ってるのよ。また会えるに決まってるじゃない」 「元気でね」と佳代は手を振ると本部の方に向かった。 何となく、佳代の目が涙に濡れていたような気がした。まるで、永遠の別れを告げたようだった。もしかしたら、本当にもう会えなくなってしまうのではないかと千恵子も心配になった。眠かったけど、みんなを見送ろうと寝台から降りて佳代の後を追った。 本部の近くまで行って待っていたのに、すぐ出発にはならなかった。持って行く荷物の準備に時間が掛かっているようだった。千恵子は一旦、寝台に戻った。見送るつもりだったけど駄目だった。ほんの少しウトウトしていたつもりだったのに、目が覚めた時には佳代たちはもういなかった。 夜明け前、千恵子は同じ勤務時間の和美を誘って富盛の井戸に向かった。照明弾が飛び交い、艦砲弾が絶え間なく炸裂している。佳代が行った東風平の方はかなり激しくやられているようだった。みんな、無事に着いただろうか。佳代たちの心配をしながらも、何度も体を伏せて、ようやく井戸にたどり着いた。 顔を洗った千恵子と和美は思わず、「気持ちいい」と同時に言って、顔を見合わせ笑い合った。 疲れ切ってしまうので、仕事が終わった後、井戸まで行く元気はなく、 千恵子も和美も三つ編みを解くと髪の毛を洗った。ついでに、血と 「ねえ、チーコ、ついでに体も拭きましょうよ」と和美が言った。 「勿論よ」と千恵子も言った。着物にもシラミがわいていて気持ち悪かった。 「これも洗いたいわね」と言いながら和美は上着を脱いだ。 「まさか、洗うつもりなの」と千恵子は驚いた。洗ってしまったら、乾くまで自分の着物を着なければならない。そうすれば、自分の着物も血だらけになってしまう。 「洗わないわよ。シラミを落とすだけ」そう言って和美は上着を振った。「この前、ここでトヨ子と会ったんだけど、トヨ子ったら上着をさっさと洗って、濡れたままのを平気で着て帰って行ったわよ」 千恵子は笑った。「トヨ子らしいわ」 千恵子も上着を脱いで、シラミを落とした。下着をはだけて体を拭きながら、那覇の家にあったお風呂を思い出していた。空襲で家をなくした後、首里の祖母の家で何度か、お風呂に入ったけど、もう二ケ月以上、入っていなかった。お湯の中に体を沈めたら、どんなに気持ちがいいだろう。戦争が終わったら、まず第一にのんびりお風呂に入ろうと決めた。 「ねえ、チーコ」と和美が呼んだ。 「なあに」と千恵子は和美の方を見た。照明弾が上がっている時は和美の顔もよく見えるけど、照明弾が消えると真っ暗になって顔もよく見えなかった。 「あたし、あれがないのよ」 「あれって、何がないの」 「チチヌムン(生理)よ。東風平にいた頃はあったのよ。でも、こっちに来てから、もう二ケ月近くないのよ。体の具合でも悪くなったのかと心配なのよ。チーコはどう?」 「あたしもないわ。でも、気にしなくてもいいみたいよ。この前、小百合が心配して古堅さんに聞いたの。そしたら、こういう危険な状況下にいて緊張状態が続くと生理がなくなる事もよくあるんだって。戦争が終わって平和になれば、すぐに戻るから心配しなくも大丈夫って言ってたわよ。現に看護婦さんたちも生理が止まった人が多いんだってさ」 「ほんと。一人で心配して損しちゃった。あたしだけだと思って。早く、看護婦さんに相談すればよかった」 「そうよ。すぐ側にいるんだから、何でも相談した方が得よ。この間も、頭が痛いって言ったら、すぐにお薬をくれたわ」 「そうね、今度からそうするわ」 千恵子と和美がさっぱりして壕に戻ると二高女の宿舎が騒がしかった。勤務中のはずの信代がいたので、「どうしたの。何があったの」と聞くと、 「出て行った人たちの寝台が空いたままだから、あたしたちが奥に詰めて衛生兵の人たちを入れるんだって」と言った。 「あたしたちも移動するの?」と和美が聞いた。 「奥の方の人はそのままでいいのよ。移動するのは晴美たちまでよ」 千恵子は早いうちから移っていたので問題なかった。信代は新城分院に行った政江の寝台に移って来た。自分の寝台に戻ると佳代の所に悦子がいた。 「エッコがここに来たのね」 「そうよ、小百合も下にいるしね。ほんとはこのまま休みたいんだけど、そうも行かないわね」と言いながら悦子は勤務に戻って行った。 千恵子たちの一つ奥の寝台に晴美と利枝が荷物を持って移って来た。勤務時間が違うので、本部勤務の二人に会うのは久し振りだった。 「あれ、チーコは分院の方に行ったんじゃなかったの」と二人は驚いていた。 「なに言ってるのよ。あたしはずっとここにいたわよ」 「だって、チーコはトヨ子と一緒に一番手前にいたじゃない。二人していなくなったから、どこかに行ったんだと思ってたのよ」 「トヨ子がいなくなったら、何だか心細くなっちゃって、内緒でね、初江がいたここに移ったのよ。同じ職場の小百合と佳代がいたからね。それに、あそこ、隣に笠島伍長さんたちがいたでしょ。何だか見張られてるみたいだったし」 「何だ、そうだったの。あたしたちも本部で異動の事を聞いた時、チーコの名前はなかったような気がしたんだけど、何かの都合で異動したんだと思ってたのよ」 本部勤務の晴美たちは治療班になって軍医さんと一緒に各病棟を回っていた。でも、治療班の仕事は昼間で、千恵子はずっと夜勤だったので会う事はなかった。二十四時間勤務になって昼間も働くようになったが、治療班が各病棟を回るのは三日置きになっていたので、まだ会っていなかった。 話したい事はいっぱいあった。晴美たちが顔を洗いに行くというので、千恵子ももう一度、井戸に行った。 外はもう明るくなっていて、艦砲もやんで静かだった。千恵子は体を伸ばして、思い切り新鮮な空気を吸った。勤務中の者たちが忙しそうに水汲みに出掛けたり、衛生兵と一緒に死亡患者の埋葬に出掛けていた。 「昨日、いえ、 「うん、知ってる。澄江のお見舞いはみんなと一緒に行ったんだけど、初江のお見舞いはまだ行ってないのよ」 すまないと思っていた。でも、千恵子自身も疲れて倒れそうだった。行こうと思っていても体の方が動かなかった。 「澄江はもう大分よくなってるわ。あと二、三日もしたら退院できると思う。初江の方は入院したばかりだったから、少なくても一週間は入院しなけりゃ駄目ね」 「そう。近いうちにお見舞いに行くわ」 晴美が内科に行った時、本部勤務の美智子、第一内科のマツ、第三外科の里枝子もいたけど、今、入院しているのは澄江と初江だけで、美智子もマツも里枝子も退院して勤務に戻っているという。 「ねえ、本部にいる晴美ならわかると思うんだけど、友軍の総攻撃はあったの」 「あったらしいわ。でも、敵の反撃も凄かったらしいのよ。昨日、東風平から帰って来た村田伍長さんの話だと東風平も昼間はひどいけど、夜になれば、まだ動けない事はない。でも、南風原や首里の方は物凄いって言ってたわ」 最近、姿を見なかったので、村田伍長も前線に行ってしまったと思っていた。帰って来たと聞いて安心したけど、南風原と聞いたからにはそれ所ではなかった。姉と浩子おばさんの事が気になった。 「南風原にはチーコのお姉さんがいるんでしょ」と晴美は心配した。 「ねえ、南風原はどんな状況なの」 「一日中、艦砲が豪雨のように落ちて来て、一歩も外に出られないみたいよ。東風平に南風原から来た患者さんがいて、その人の話だと病院壕が直撃されて、女学生が何人か亡くなったらしいわ」 「女学生っていうと師範女子部と一高女の生徒?」と千恵子は聞いた。 「多分、そうだと思うけど」 千恵子は姉と同い年で幼なじみのミエちゃんが南風原にいる事を思い出した。 「誰が亡くなったのかわからないわよね」 「そこまでは、村田伍長さんも聞いてないんじゃない」 「そう‥‥‥」 千恵子は勤務に戻った後も南風原の事が気になっていた。女学生だけでなく看護婦にも死亡者が出たのではないだろうか。姉や浩子おばさんの無事を必死になって祈った。
|