沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲





第二部




16.下痢




 七日の夕方、千恵子は和美を誘って、初江のお見舞いに行った。内科病棟もほぼ埋まっていた。高熱を出して苦しそうに唸っている患者さんが多く、こんな所に入院したら、治る病気も治らないんじゃないかと心配した。澄江はもういなかった。初江は中程の下段の寝台に寝ていた。

「初江」と声を掛けると初江は目を開けた。暗くてよくわからないけど、やつれているようだった。

「チーコなの」と弱々しい声で言った。

 千恵子は持って来たみ号瓶のランプを自分の顔の側に上げて、「和美も一緒よ」と和美の顔にランプを近づけた。

「来てくれたの。ありがとう」

「大丈夫なの」と千恵子は聞いた。

「うん。なかなか下痢が止まらなくって。でも、大丈夫よ。あたしよりひどかった澄江だって治ったんだから」

「澄江はいつ退院したの?」

「昨日だと思うわ。ねえ、今、何時頃なの」

「五時半頃よ、夕方のね」

「そう。もうすぐ勤務交替の時間なのね。あたしも早く治して戻らなくちゃならないんだけど‥‥‥まったく、自分が情けないわ」

「そんな事考えないで、治療に専念しなけりゃ駄目よ」と和美が言った。

「うん。みんなも気を付けてね。そしてね、下痢になったら自分だけで我慢してないで、すぐに看護婦さんに言った方がいいわ。特効薬があって、初期の頃ならすぐに治るらしいのよ」

 初江はみんながどうしているか知りたがった。初江が勤務していた上の壕の事はわからないけど、小百合や悦子、鈴代や由美、東風平(こちんだ)に行ってしまった佳代たちの事を話した。話したい事はまだまだあったけど、勤務時間になってしまい、千恵子たちは初江と別れた。

「また来るからね」と言って、初江が差し出した手を握ったら、かなり熱があるような気がした。晴美から聞いた話では、内科病棟には結核、マラリア、腸チフス、アメーバ赤痢と様々な伝染病患者が詰め込まれているという。ちゃんとした病院に入院したら、初江の病気もすぐに治るのに、こんな所で病気になるなんて可哀想すぎた。

 患者さんはどんどん増えているのに、前線に行ったり、分院に行ったりして軍医や衛生兵、看護婦の数も少なくなっていた。それに薬品や包帯なども不足してきて、患者さんの治療は五日置きになってしまった。

 早く治療してくれと患者さんが騒いでも、血と(うみ)だらけの包帯を替えてくれと騒いでも、どうする事もできなかった。千恵子たちが洗った包帯は乾いた後に集められ、手術室で滅菌してから再利用するので、乾いたからといって勝手に使う訳にはいかなかった。気の毒だけど我慢してもらうしかなかった。

 第六外科に治療班が来たのは八日の午後だった。前日の午後六時から勤務についていた千恵子はもうフラフラだった。十二時間勤務の時は日を追うに従って慣れる事ができたが、二十四時間勤務は何度やっても慣れる事はできなかった。十六、七時間経つ頃には必ず睡魔が襲って来た。治療班が来たのは丁度そんな時間帯だった。千恵子は睡魔と戦いながら、患者さんの包帯を次々に解いて行った。手が膿でベトベトになるけど、そんな事一々構ってなんかいられなかった。汚いとか、気持ち悪いとかの感覚も麻痺していた。

 四十四人の包帯を解くのは大変な事だった。包帯を解くのはその病棟の担当者で、治療が済んだ後、新しい包帯を巻くのは治療班の晴美たちの仕事だった。治療班も忙しいので、端からさっさと治療をして行く。治療班が来るまでに包帯を解いておかなければ、軍医さんに怒鳴られる。千恵子は必死になって包帯を解いて行った。幸い、その時間帯は古堅看護婦と小百合が一緒だったので助かった。もし、悦子と二人だけだったら、早くしろと何度も軍医さんに怒鳴られたに違いなかった。

 治療が終わり、患者さんたちは綺麗な包帯を巻いてもらって、生き返ったようだと喜んでいたけど、千恵子はもう立っている事もできない程、疲れ果て、水甕(みずがめ)の近くに座り込んでしまった。目の前にある乾パンの空き罐は汚れた包帯で溢れていた。患者さんに水を飲ませていた小百合が包帯の入った空き罐を二つぶら下げて来て、「チーコの分もちゃんと取っておいてあげるからね」と言った。

 汚れた包帯の事だった。包帯洗いのできない古堅看護婦には悪いけど、千恵子たちにとって、夜、井戸端に行って、新鮮な空気を思い切り吸って、顔を洗ったり、一緒になった友達と歌を歌ったり、話をしながら包帯を洗うのが唯一の楽しみになっていた。以前に増して激しくなっている艦砲は恐ろしいけど、ずっと壕内にいるのは耐えられなかった。

 治療班と一緒にどこかに行った古堅看護婦が戻って来た。患者さんたちに声を掛けながら千恵子の方に来た。千恵子はやっとの思いで立ち上がった。

「ご苦労さん」と古堅看護婦は言って笑った。「もうすぐ勤務交替だから休んでいてもいいわよ」

「でも‥‥‥」

「いいのよ。治療の後は患者さんもおとなしいからね」そう言うと古堅看護婦は手を振って、「看護婦さん」と呼んでいる患者さんの所に行った。

 あんな優しい言葉を掛けられたら、申し訳なくて休んではいられなかった。あともう少し頑張ろうと千恵子は足を踏ん張った。

 それは突然、やって来た。十日の朝、仕事が終わるとすぐに寝台に潜り込んだ千恵子はいつものようにすぐに眠りについた。夜中に、眠っていた千恵子にとっての夜中で、実際は真っ昼間だったが、急におなかが痛くなった。すぐ治るだろうと、しばらく、おなかをさすってみたが駄目だった。千恵子は救急袋の中からちり紙をつかむと第七外科を抜けて入口へと向かった。

 お手洗い、軍隊用語でいう(かわや)は各入口の外、三、四メートルの所にあり、穴を掘って(こも)で囲っただけの小屋だった。おなかを押さえたまま、千恵子はトンボ(敵の偵察機)がいない事を願いながら、「厠に行って参ります」と入口にいる歩哨兵に言った。

「ちょっと待て」と歩哨兵は空を見上げながら右手を横に差し出した。待てと言われても待てる状況ではなかった。

「お願いします」と我慢しながら言った。

「ん」と言って歩哨兵は振り返り、千恵子の様子を見ながら、「下痢か」と聞いた。

「まだわかりません。急におなかが痛くなって‥‥‥」

「そうか。もうちょっと待て。今、トンボが飛び回っている」

 トンボが上空にいる時は絶対に出入りは禁止だった。もし、見つかってしまえば、艦砲の集中攻撃を受けてしまう。今が夜だったら、トンボの心配をしなくてもいいのに、よりによって昼間におなかが痛くなるなんて、自分の運のなさを嘆いた。千恵子は必死になって我慢した。冷や汗が流れて来て体が震え、気が遠くなりそうだった。歩哨兵は手を横にしたまま上空を見上げている。

「よし、行け」と歩哨兵は言った。

 千恵子は一目さんに厠に向かった。艦砲に気を付けろよと歩哨兵は言っていたが、そんなのは天に身を任せるしかなかった。艦砲にやられるよりも、お漏らしをしてしまう方が恥ずかしかった。

 厠に座り込んだ途端、勢いよく下痢が出た。下痢が出ればおなかも治るだろうと思ったが、刺すような痛みは消えなかった。千恵子はしばらく座り込んでいた。出る物もなくなり、いくらか痛みも治まって来た。ホッとすると同時に、外で炸裂している艦砲弾の音が耳に入って来た。こんな所でお尻を出したまま艦砲にやられたらどうしよう。想像しただけでも恥ずかしくなって、千恵子は慌てて、ちり紙でお尻を拭いた。ちり紙を捨てようとした時、チラッと赤くなっているのに気づいた。

 ガーンとなった。アメーバ赤痢だと千恵子は思った。初江や澄江たちのように内科病棟に入院しなければならないのか。初江は早いうちに特効薬を飲めば、すぐに治ると言っていた。第十外科の古波蔵看護婦が千恵子と勤務時間が同じだった。古波蔵看護婦は二十四時間勤務になっても相変わらず元気で、休憩の時は、衛生兵たちと一緒に酒を飲んで騒いでいた。千恵子も何度か声を掛けられて加わったけど、眠くて仕方がなかった。古波蔵看護婦に頼めば特効薬をもらえるだろうと思いながら、厠から出て病院壕の入口の方を見た。

 歩哨兵はのんきに煙草を飲んでいた。千恵子に気づくと空を見上げ、「よし」と言って手招きした。千恵子は身を伏せながら駈け込んだ。

「下痢は治ったか」と歩哨兵は笑いながら聞いた。

 千恵子は恥ずかしそうにうなづいて、古波蔵看護婦の所に行こうとして、まだ、みんなが眠っているのに気づいた。

「あのう、今、何時ですか」と歩哨兵に聞いた。

 歩哨兵は煙草を靴で踏み消して腕時計を見た。

「まだ十時を過ぎた所だよ。六時までは充分にある。ゆっくり休みな」

 十時では真夜中と同じだった。古波蔵看護婦を起こす訳にはいかなかった。もう少し我慢しようと千恵子は寝台に戻った。その後、六回も刺すような痛みが襲って来て厠に通った。ようやく四時頃になって、眠っていた者たちが起き出した。千恵子も寝台から出て、看護婦たちが寝ている奥の坑道に行った。ろくに眠れなかったせいか、足元がフラフラしていた。

 看護婦も上の壕や分院に行ったりして随分と減っていた。古波蔵看護婦はまだ寝ていた。起こしたら悪いかなと思って躊躇(ちゅうちょ)していると隣の上段から大城看護婦が、「おはよう」と声を掛けて来た。

「おはようございます」と頭を下げると、「どうかしたの」と言いながら降りて来た。

「いえ、何でもないんです」

 大城看護婦は「そう」と言ったけど、首を傾げながら本部の方へ行った。

「あら、チーちゃんじゃない」と古波蔵看護婦が目を覚ました。

「おはようございます」と言ってから、「古波蔵さんにお願いがあるんですけど」と千恵子は特効薬の事を頼んだ。

「そんな事なら任せておいてよ」と古波蔵看護婦は喜んで引き受けてくれた。千恵子はお礼を言って、自分の寝台に戻った。

 しばらくして、古波蔵看護婦は千恵子の所に来た。

「これを飲めばすぐに治るわ」と言って千恵子に渡したのは、アンプルに入った薬だった。

「これ、注射するんですか」と聞くと、古波蔵看護婦は首を振った。

「飲んでも大丈夫なのよ。飲んだ方が直接、腸に行くからアメーバは死んじゃうわ。それと、これ」と左右を見回して、素早く上着の下からちり紙の束を出して、毛布の下に隠した。

「ありがとうございます」千恵子は心から喜んだ。支給されたちり紙がなくなってしまい、救急袋やリュックの中から紙なら何でもかき集めて使っていた。その紙もなくなってしまい、愛唱歌集を破いて使わなければならないのかと思っていた所だったので、古波蔵看護婦の好意は本当にありがたかった。

「あたしもね、昔、苦しんだからわかるのよ。早くよくなってね」古波蔵看護婦は片目をつぶると帰って行った。千恵子はもう一度、お礼を言った。

 その日の勤務は想像を絶する苦しさだった。特効薬の効果はなかなか現れず、厠通いが続いた。最初の十二時間は悦子と二人だけなので、悦子には悪いと思うが我慢する事はできなかった。包帯洗いの時は厠まで行く事ができず、艦砲に脅えながら草むらの中に座り込んだ。飯上げの時は体中の力が抜けてしまったようで、食罐を持ち上げるのも容易ではなかった。ようやく持ち上げたと思ったら便意を催して厠に駈け込んだ。戻って来たら悦子もいないし食罐もなく、慌てて第六外科に行くと、たまたま通りかかった村田伍長が運んでくれたという。悦子に謝り、村田伍長には心の中でお礼を言った。おにぎりを握っている最中も厠に飛び込まなくてはならなかった。骨折で入院していた仲村看護婦がギプスも取れ、少し足を動かさないと治らないからと言って、(つえ)をつきながら手伝ってくれたので助かっていた。

 長かった夜が明け、攻撃のやむ五時になった。悦子が水汲みに行こうとしたら、仲村看護婦が、「こっちはあたしが見てるから二人で行ってらっしゃい」と言った。患者さんたちも静かだったので、「それじゃあ、お願いします」と言って、千恵子と悦子は一斗罐をぶら下げて井戸に向かった。

「外に出るとホッとするわね」と悦子が嬉しそうに笑って深呼吸をした。

 千恵子も笑って深呼吸をしたけど、また、おなかが痛くなるような気がして、いつものように思い切り、新鮮な空気を吸う事はできなかった。

 空は晴れ渡り、今日も暑くなりそうだった。空だけを見ていれば、例年と変わらない若夏の季節だが、視線を下げると戦争という現実があった。艦砲や爆弾の穴があちこちにあいて、樹木は倒れ、サトウキビは吹き飛び、富盛集落は瓦礫(がれき)の山と化していた。

 井戸端では勤務前の小百合と鈴代が髪を洗っていた。

「チーコ、どうしたのよ」と小百合が千恵子の顔を見ながら心配した。

「げっそりしちゃって、まるで病人の顔じゃない」そう言う小百合も決して顔色がいいとは言えないのだが、千恵子の顔は相当にひどい有り様なのだろう。千恵子は小百合に下痢の事を話した。

「ねえ、お薬、飲んだの」

「古波蔵さんからもらって飲んだわ」

「そう。それならいいけど。チーコが入院なんかしちゃったらもう大変よ」

「わかってるわ。エッコにも随分、迷惑かけちゃったし」

 信代と由美が水汲みにやって来た。小百合が千恵子の下痢の事を話すと、

「今も話してたんだけど、和美が入院しちゃったのよ」と由美が言った。

「えっ、和美が入院したの」と同じ第五外科の鈴代が驚いた。

 和美も下痢が続いていて、昨夜、勤務中に倒れてしまい、そのまま、内科病棟に入院したという。もしかしたら、初江のお見舞いに行った時、悪い病気が移ったのかもしれないと千恵子は心配した。あたしも入院するのかしら。

「和美がいなくなったら、あたし一人だけになっちゃうじゃない」と鈴代が騒いでいた。

「大丈夫よ」と由美が言った。「新垣さんがあと十二時間働き続けるって言ってたから」

「えっ、三十六時間勤務をやるの」

「そうなのよ。今から十二時間も働くなんて、あたしにはとても無理よ。そんな事したら、あたしだって倒れちゃうわ」

「恵美がこの前、三十六時間勤務をやったって言ってたわよ」と信代が言った。

「えっ、恵美が」と千恵子たちは驚いた。

「幸江が東風平に行っちゃったでしょ。第九外科は看護婦さんを入れて三人だけになっちゃったのよ。うまく勤務を組めば常に二人づつになるんだけど、突然、幸江が抜けたんで、勤務がずれて、照屋さんと恵美が三十六時間働かなければならなくなっちゃったんだってさ」

「よくそんなにも働けたわね」と小百合が感心しながら言った。

 千恵子も凄いと思っていた。恵美は確かに頑張り屋さんだけど、三十六時間も働き続けるなんて、想像以上に辛かったに違いない。恵美の事を思えば下痢なんかに負けてはいられなかった。

「だけどね、仕事が終わった後、倒れるように、ぐっすり眠ってしまって、勤務交替時間にも起きられなくて、照屋さんに起こされたって言ってた。十二時間、ずっと寝てたんだって」

「そうでしょうねえ」と小百合は何度もうなづいていた。

 仲村看護婦が杖をつきながら頑張っているのに、いつまでも無駄話をしているわけにもいかないので、千恵子と悦子は小百合たちと別れた。病院壕への坂道を歩いている時、突然、物凄い勢いで艦砲の音が響き渡った。敵の攻撃が始まるのが、いつもよりも早いような気がした。悦子が早く、早くと急き立て、速足になったけど千恵子には付いていけなかった。必死になって広場まで来たら、悦子が立ち止まったまま空を見上げていた。

「エッコ、何してるの。危ないわよ」と千恵子は言った。

「どうもおかしいわよ。敵機は飛んでないし、艦砲もどこにも落ちて来ないみたい」

 艦砲を打ち上げる物凄い音は聞こえるけど、炸裂(さくれつ)する音は聞こえなかった。

「特攻隊だ!」と誰かが叫んだ。声のした方を見ると、上の壕の辺りに何人かの衛生兵が固まっていて、海の方を見ていた。

「ねえ、あたしたちも行ってみましょうよ。轟沈(ごうちん)が見られるかもしれないわ」悦子が目を輝かせて言って、汲んだ水をその場に放り出したまま上の壕へと走って行った。

「ちょっと、エッコ、水はどうするのよ」と千恵子が言っても、悦子は返事もせずに走って行ってしまった。いつもはおとなしい悦子も海軍に憧れていた。海軍の活躍を一目見ようと仕事も忘れて飛んで行ってしまった。千恵子も勿論、特攻隊を見たかった。水の入った一斗罐をそのままにして悦子の後を追って走った。しかし、急に便意を催し、第二坑道前の厠に飛び込んだ。

 上の壕からは糸満沖の海がよく見えた。海上に浮かぶ、いくつもの敵の軍艦から上空に向けて艦砲が続けざまに打ち上げられていた。それは途切れる事なく、まさに鉄の暴風だった。その暴風の中に北から飛んで来た友軍機が次々に飛び込んで行った。

「凄い」と千恵子は思わず言って、特攻隊に見入った。上の壕勤務のトヨ子とトミもポカンとした顔で見ていた。

「あっ」とトヨ子が叫んだ。

 友軍機が煙を吐きながら海に突っ込んで行った。

「また、やられた」と衛生兵が言った。

 特攻機は敵の軍艦に突っ込む前に、次々に海に落ちて行った。あの物凄い艦砲射撃の中、敵艦に突っ込むなんて不可能だと千恵子は思った。前に安里先輩が言っていたけど、その通りで、あの状況下で爆弾を落として帰るなんてできる訳がなかった。敵艦に近づく前に落とされてしまう。生きて帰るなんて甘い考えは通用しなかった。どうせ死ぬのなら奇跡を信じて、真っすぐ敵艦に突っ込むしかなかった。

「当たった」と悦子が叫んだ。

 千恵子もはっきりと見た。特攻機が敵艦に命中して、火柱が上がり、黒い煙が舞い上がった。

「万歳! 万歳!」と衛生兵が叫び、千恵子たちも一緒に万歳をした。でも、敵艦に命中したのはそれだけで、後は皆、打ち落とされてしまった。百機近くいたと思うが、それが、わずか十分ばかりの間に皆、海の藻屑(もくず)となってしまった。

 艦砲が治まると急に静かになった。特攻隊の攻撃が夢だったかのように海は静かに輝き出した。特攻機にやられた敵艦一隻だけが黒い煙を上げているが、沈没する程の被害ではなさそうだった。

「もう終わっちまったのか」と言いながら衛生兵たちは引き上げて行った。

「それじゃあ、またね」とトヨ子は勤務に戻って行った。トミはこれから井戸に行くというので一緒に下に降りた。

 上の壕へと続く坂道には手術を待つ重傷患者が唸りながら並んでいた。中には戸板に乗せられたまま置いて行かれた患者もいて、血だらけの包帯を巻いて、苦しそうな顔して千恵子たちに手を差し伸べて来た。可哀想だけど、病院壕内の寝台はすべて埋まっているので収容する事はできなかった。衛生兵たちが昼間は手術ができないから壕の入口前に列を作るなと言っても、重傷を負った負傷兵たちは必死になって治療を望んだ。衛生兵たちは患者たちを慰めながら、広場に作った擬装網の下に運んでいた。上から見てもわからないというけど、夜になるまで、あんな所に放って置かれるなんてひどすぎた。でも、どうしようもなかった。皆、自分の仕事をやるだけで精一杯で、外にいる患者さんの事まで手が回らなかった。

「上の壕は十二時間勤務なんでしょ。いいわねえ」と悦子が言うと、

「なに言ってるのよ。あたしたちだって二十四時間勤務になったのよ」とトミが少し怒った口調で言い返した。「初江は入院しちゃったし、伊良波さんは東風平に行っちゃったし、金城さんと渡嘉敷さんは小城(こぐすく)の分院に行っちゃったし」

「ちょっと待ってよ」と千恵子はトミの話を(さえぎ)った。「小城分院て何の事」

「また、分院ができたのよ。東風平分院の西の方って聞いたけど、よく知らないのよ」

「そこに看護婦さんが二人行ったの」と悦子も驚いていた。

「本部からも二人行ったらしいから、四人じゃないかしら」

「ねえ、上の壕から誰か生徒も行ったの」と千恵子は心配して聞いた。

 トミは首を振った。「それはなかったの。どこも手一杯だから、現地で補助看護婦を集めるらしいわよ」

「そう、よかった。これ以上、減ったらもうどうしようもないわよ」

「それでね、今、上の壕は看護婦さんが二人しかいないのよ。衛生兵の人も少なくなっちゃったし、それでも、毎晩、手術があるんだから、もう大変なのよ。チーコや悦子は切られた足や手を捨てた事なんてないでしょ。あれ、物凄く重たいのよ。付け根の所から切断された足なんて、重くてとても一人じゃ持てないんだから。そんなのを毎朝、捨てに行かなけりゃならないのよ」

「ごめん、ごめん。そんな事知らなかったのよ」悦子は怒っているトミをなだめた。

 水を置いておいた場所に水はなかった。大変だ、どうしようと千恵子と悦子は真っ青になって捜し回った。特攻隊を見ていて水を汲む一斗罐をなくしましたと帰るわけにはいかなかった。

「誰かが持って行っちゃったのよ」と悦子が言った。

「誰かって誰よ」と千恵子は聞いたが、そんな事、悦子にわかるはずがなかった。

 二手に分かれて捜そうと千恵子は井戸の方を捜し、悦子は病院壕の方を捜した。トミも手伝ってくれたけど、一斗罐はどこにもなかった。井戸にはもう、小百合たちはいなかった。富盛集落の人が三人、水を汲んでいた。富盛の人に頼んで、水を汲む入れ物を借りるしかないわよとトミと相談していたら、悦子が「あったわよ」と空の一斗罐を二つぶら下げてやって来た。

「あったの。よかった。どこにあったの」

「炊事場よ。炊事場の人が持ってっちゃったのよ」

「そうだったの。よかったわね」千恵子はホッとした。「でも、怒られたんじゃないの」

「怒られたわよ。でも、下痢がひどくて草むらの中で用を足していたって言ったら、何とか許してくれたわ」

「炊事場の人にそんな事言ったの。恥ずかしいじゃない」

「でも、本当の事を言ったら、さぼってたって返してくれなかったわよ。いいじゃない、返してくれたんだから」

「そりゃ、そうだけど‥‥‥ねえ、エッコ、あたしの名前は出さなかったでしょうね」

「勿論、出したわよ。二つ返して貰うにはチーコの名も言わなくちゃならないでしょ」

「もう、まったく。恥ずかしくて炊事場に行けないじゃない。下痢になって、しかも、野糞(のぐそ)をしていたなんて、いい笑い者だわ」

「大丈夫よ。下痢になったのはチーコだけじゃないんだから。炊事場の大城一等兵さんも下痢でひどい思いをして、下痢じゃ仕方ない。あれは我慢できないからなって許してくれたのよ」

 千恵子たちは急いで、水を汲むとトミと別れて病院壕に戻った。

「随分と遅いんじゃないの」と仲村看護婦は言ったけど、それ程、怒っていなかったので助かった。二人は頭を下げて謝った。

 六時の勤務交替時間となり、古堅看護婦と小百合がやって来て、悦子が、「もう、くたくたよ」と言いながら引き上げて行った。

「古波蔵さんから聞いたわよ。下痢になったんだって」と古堅看護婦はアンプル剤を千恵子にくれた。「これを飲みなさい。すぐによくなるわ」

 千恵子はお礼を言って薬を飲んだ。古波蔵看護婦から貰った薬と同じだった。みんなから心配してもらって、早く治さなくっちゃと心から思った。







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