沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲





第二部




17.蛆虫




 特効薬のお陰で、千恵子の下痢は治った。夜中に腹痛に悩まされる事もなく、ぐっすりと眠ったら、力がよみがえって来たような、すっきりした気分だった。

 古波蔵看護婦にお礼に行くと、「あら、治ったの。よかったわねえ」と喜んでくれた。

「ほんとに治ったのね」と念を押すのでうなづくと、「やっぱり、(やまい)は気からって言うけど本当なのね」と笑った。

「そうかもしれませんけど、やっぱり、特効薬のお陰ですよ」と千恵子はもう一度、お礼を言った。

「実はねえ、あれはただのブドウ糖だったのよ」と古波蔵看護婦は舌を出した。

「えっ」と千恵子は驚いた。

「特効薬をもらいに行ったんだけど、もうないって言うのよ。先月の半ば頃はいっぱいあったんだけどね、前線の兵隊たちが大勢、下痢になって仕事にならないって、前線の方に送ったらしいのよ。仕方ないから、ブドウ糖をもらって特効薬だって飲ませたの。ブドウ糖じゃ無理だろうと思ってたんだけどね、よかったわ、治って」

 古波蔵看護婦はおどけた顔して千恵子の肩をたたいた。勿論、古堅看護婦がくれたのもブドウ糖だった。古堅看護婦が特効薬がない事を千恵子に言う前に、訳を話して口裏を合わせたようだった。千恵子はすっかり特効薬だと信じ切っていた。ただのブドウ糖だったなんて信じられなかった。でも、たとえ、あれがブドウ糖でも下痢が治ったんだから、千恵子にとっては特効薬に違いなかった。

「まだ病み上がりなんだから気をつけてね」と古波蔵看護婦はもう一本、ブドウ糖をくれた。

 早めに勤務に就いて、皆に迷惑をかけた事を詫びると、「えっ、治ったの」と皆、驚いていた。

「あんなに苦しそうだったから入院しなけりゃ駄目よってエッコと話してたのよ。ほんとに治ったの」と小百合が千恵子の顔にランプを近づけた。

「ほんとよ。もう下痢は治ったし、おなかも痛くないのよ」

「信じられない。でも、ほんとによかった。チーコが倒れたら、もう、あたしたちだって倒れちゃうかもしれなかったわ、ねえ」と悦子が嬉しそうに言った。

「古波蔵さんから特効薬をもらったのよ。あれを飲めば一発で治るのよ」

「そうだったの。古波蔵さんなら特効薬も手に入れられるわね。この前、軍医さんと大喧嘩して、軍医さんを言い負かしてたわ。あの人、ほんとに凄いわよ」と悦子が言うと、

「そうよ。あの人を嫌っている看護婦さんもいるみたいだけど、いい人なのよ」と小百合も言った。

 古堅看護婦にも特効薬のお礼を言うと、「あら、もう治ったの」と不思議そうな顔をした。

「もう大丈夫です」と笑うと、

「そう、よかったわ。ほんとによかったわねえ」と喜んでくれた。

 患者さんの中にも千恵子の事を心配してくれた人もいた。もうすぐ退院できる和田上等兵は、「チーちゃん、よかったねえ」と言った後、「ちょっとやつれて、美人になったんじゃないのか」と冗談を言った。

 悦子が聞いていて、「そんな事を言ってると美人の婚約者に言い付けますよ」と言い返した。

「やあ、エッちゃんには参ったねえ」と和田上等兵は照れ笑いをした。

 古い患者さんは千恵子の事をチーちゃんとかチーコちゃんと呼んでいた。最初の頃は、看護婦さんとか、学徒さんと呼んでいたけど、小百合や悦子がチーコと呼ぶので、いつの間にか、そう呼ばれるようになっていた。小百合はサユリちゃん、悦子はエッコちゃんとかエッちゃんと呼ばれていた。

 背中に重傷を負ってうつ伏せに寝たままの林一等兵も、左腕がなくて胸に重傷を負った黒沼伍長も、右腕と右足のない木村軍曹も、背中と両手に重傷を負った石田上等兵も皆、「よかったね」と自分の事のように喜んでくれて嬉しかった。

 仲村看護婦にも迷惑を掛けたので謝ろうと思ったら、昨夜、退院したという。まだ、杖をつかなければ歩く事はできないけど、事務ならできるので本部勤務になったらしい。

 千恵子が患者さんのおしっこを取って汚物入れの所に戻って来ると、一番奥の下段に寝ている山内一等兵が、「痛え、痛えよう」と騒いでいた。

 第六外科が新設された日に入院した古い患者さんで、両足に重傷を負って右足は切断され、胸部にも重傷を負っていた。最初の頃は唸っているばかりで食事も取れない状態だったが、少しづつ快方に向かって、胸部の傷は大分よくなり、食事も取れるようになっていた。

「その人、昨夜も痛い、痛いって、ずっと騒いでたのよ」と悦子が言った。「仕方ないから古堅さんが痛み止めの注射を打って、やっと静かになったんだけど、薬が切れちゃったみたいね」

 薬品不足は深刻で、化膿止めや痛み止めの注射も以前のようには打てなくなっていた。初めの頃は千恵子たちが薬剤室に行けば、はいはいと言って薬をくれたのに、患者さんが増えるに従って、難しい手続きが必要になり、正看護婦が行かなければどうにもならなくなっていた。痛み止めの注射を打ってやりたいけど、古堅看護婦が出勤して来る夕方まで待ってもらうしかなかった。

 我慢して下さいと頼んでも無駄だった。痛い痛いと喚き続け、回りの患者さんたちも怒って、早く、静かにさせろと怒鳴った。

「古波蔵さんに頼もうか」と悦子が言った。

「そんな、駄目よ。第六外科の患者さんの事をよその看護婦さんに相談したら、古堅さんの面目丸つぶれになっちゃうわ。二人で何とかしなくちゃ」

「そんな事言ったって、どうするのよ」

「治療班は今日来るかしら」

「まだじゃないの。明日か明後日(あさって)じゃない」

 千恵子が痛い場所を聞くと、切断した右足ではなくて、左足の方だった。包帯を巻いた左足のふくら(はぎ)に耐えられない程の激痛が走るという。とにかく、包帯を解いてくれと言うので、千恵子は悦子とうなづき合ってから包帯を解き始めた。包帯を解いて傷口を消毒すれば痛みもいくらか和らぐだろうと思った。

 包帯を解きながら千恵子は変な音を耳にしていた。ガサガサというか、ギジギシというか、時々、ネズミが現れるので、ネズミが柱でもかじっているのかと思ったが、どうも、包帯の中から聞こえて来るような気がした。ランプを近づけて見たけど、膿で汚れているだけでよくわからなかった。

「どうしたの」と悦子が聞いた。

「ねえ、変な音がしない」と聞いたが、悦子は「気のせいよ」と言って、他の患者さんの方へ行ってしまった。

 包帯を解くにしたがって悪臭がプーンと鼻をつくが、もう慣れて、我慢できるようになっていた。包帯を外し、膿に濡れたガーゼをはがすと、艦砲の破片にやられた傷口が現れた。と同時に傷口からポロリと何かが、千恵子の手の上に落ちて来た。何げなく、それを見た千恵子はゾッとした。蛆虫(うじむし)が手の上を這っていた。千恵子は軽い悲鳴を挙げて、蛆虫を払い落とした。

 どうして、こんな所に蛆虫がいるんだろうと思いながら、ランプを近づけて傷口を見た。傷口の肉が白く盛り上がっていた。この前、治療班が来た時はこんな風ではなかったような気がする。おかしいと思いながら傷口を見ていたら、その傷口が動いていた。さっきから気になっていた変な音もそこから聞こえて来た。蛆虫が傷口に群がっていたのだった。千恵子は思わず、悲鳴を挙げて、その場から走り去った。

 悦子が、「どうしたのよ、ねえ、どこに行くのよ」と言いながら追って来た。

 千恵子は無意識のうちに第十外科に行って、古波蔵看護婦を頼っていた。血相を変えて飛び込んで来た千恵子に古波蔵看護婦は驚き、「一体、どうしたのよ。また、下痢になったの」と聞いて来た。

 千恵子は荒い息をしながら首を振った。

「蛆が出たんです。患者さんの傷口に蛆虫がいっぱいいるんです」

 古波蔵看護婦は冷静な顔をしてうなづいた。

「とうとう第六にも出て来たのね。昨日、第四の患者さんから見つかったのよ。毎日、包帯を交換していれば、蛆なんてわかないんだけどね、仕方ないわよ。蛆は膿やバイ菌を食べてくれるので傷が早く治る場合もあるんだけど、肉や皮も食べるからひどい痛みがあるのよ。消毒したガーゼで払い落としてやってちょうだい」

 悦子は古堅看護婦から蛆虫の取り方を聞いていた。千恵子にも教えてやれと言われていたけど、まさか、生きている人間に蛆がわくなんて考えられなかったので、言うのを忘れてしまったという。

 第六外科に戻ると、「早く、そいつを何とかしてくれ」と山内一等兵は騒いでいた。足を動かしたのか、傷口にあふれていた蛆虫は毛布の上に落ちて(うごめ)いていた。

 千恵子は慌てた事を謝って、悦子が用意してくれたピンセットに消毒したガーゼを挟み、リゾール液の原液を入れた膿盆(のうぼん)代わりの空き缶の中に、傷口で蠢く蛆虫を掃き出した。コロコロと太った蛆虫は傷口の奥の方まで食らい付いていた。見ているだけで気持ち悪く、全身に鳥肌が立っていたけど、千恵子は必死になって蛆虫と格闘した。驚く程、多くの蛆虫がいて、空き缶から溢れ出そうだった。悦子に渡そうとしたら、いなかった。気持ち悪いと言いながら見ていたけど、耐えられなくて逃げてしまったようだ。

「まったく、もう。あたし一人にこんな事させて」千恵子はブツブツ文句を言いながら、死んだ蛆虫を汚物入れに捨てた。

「もう大丈夫ですよ」と千恵子は笑顔を見せて、傷口を綺麗に消毒してから新しいガーゼで塞ぎ、包帯を巻いた。包帯は汚れていたけど、山内一等兵はホッとした顔をして、嬉しそうに笑った。

 古い患者さんで同じように苦しんでいる患者さんはいないかと見て回ったけど、いないようなので安心した。

 五時頃、初江が内科治療室の方からやって来た。退院して、六時から勤務に戻るという。暗いので顔色はわからないけど、足元がフラフラしていてまだ無理じゃないかと思った。

「でも、みんなに迷惑かけられないから」と初江は言って、力なく笑った。初江の気持ちは千恵子にもよくわかった。

「ねえ、井戸に行くの」と聞くと、初江はうなづいた。

「髪を洗いたいの。もう、シラミだらけで堪えられないわ」

「エッコが水汲みに行くから一緒に行けばいいわ。きっと、小百合も行くと思うから」

 初江はうなづいた。話したい事もあるので千恵子も一緒に行きたかったけど、水汲みはもうすぐ勤務の終わる者が行く事に決めていた。そうすれば、ついでに顔や手を洗ってから、ゆっくりと休む事ができるからだった。

 悦子が来たので、初江の事を頼んだ。

「お互いに頑張りましょ」と千恵子は言って初江と別れた。

 六時になって、悦子が引き上げ、小百合と古堅看護婦が勤務に就いた。古堅看護婦に蛆虫の事を言うと、「あら、そうだったの」と驚いた。

「ひどい痛がりだったけど、まさか、蛆がわいていたなんて考えもしなかったわ。そう。とうとう、そんなひどい状況になっちゃったのね」と言って、小百合にも注意を促した。

 その夜はあちこちで蛆虫騒ぎが起こった。第五外科では鈴代が騒いだ。第二外科では美紀が騒ぎ、第三外科では里枝子が騒いだが、皆、正看護婦がいたので、すぐに処置に当たった。第七外科はアキ子と喜代の二人だけだったので大変だったらしい。第八外科の真栄城看護婦がすぐに行って対処したという。第六外科でも二人目が出て、小百合がビクビクしながら傷口から蛆虫を掻き落とした。千恵子の時よりも少なくて、十匹前後だった。

「チーコが大騒ぎしたのも無理ないわよ。気持ち悪くてゾッとしたわ。悲鳴を上げるのを必死で我慢したんだから」小百合は蛆虫を捨てながら身震いした。

 勤務が終わって、一眠りした後の井戸端でも蛆虫の話は尽きなかった。

「もう気持ち悪くて死にそうだった」とキミは言った。「信ちゃんから話は聞いてたけど、実際に目にするまでは信じられなかった」

 キミのいる第四外科は一番最初に蛆虫が発見された病棟だった。下痢も治まって、千恵子がぐっすり眠りこけている時だった。信代と咲子が二人で勤務している時で儀間看護婦はいなかった。二人は大騒ぎして第九外科の照屋看護婦に救いを求めた。その後、二人の患者から蛆虫が発見されて、キミも蛆虫退治をした。生物部で様々な虫の観察をしていたキミでも、蛆虫は気持ち悪くてどうしようもなかったという。

「もう気持ち悪くて、あたし、何度も吐きそうになったのよ」と喜代は顔を(ゆが)めた。

「ほんとよ。あたしだって何度もおえっと来そうだった」千恵子は傷口に蠢く蛆虫を思い出して身震いした。

「でも、どうして傷口から蛆虫が出て来るの」と喜代がキミに聞いた。

「きっと、ハエが患者さんの包帯に卵を産んだのよ」

「成程」と喜代と千恵子は納得した。

 壕内は薄暗くてよく見えないが、確かにハエが飛び回っていた。糞尿(ふんにょう)を溜めた汚物入れは勿論の事、汚れた包帯が入れてある罐にもハエは群がっている。それに、寝台の下には患者さんたちがかじったサトウキビの(から)があって、それにもハエはたかっていた。患者さんの膿に汚れた包帯にハエがたかるのは当然だった。卵から蛆虫がわくのに何日掛かるのか知らないけど、六日間も放って置かれたら蛆虫がわくのも仕方ないような気がした。

 第六外科に治療班が来たのは十四日だった。六日前と同じように、小百合と古堅看護婦が一緒だったので助かった。千恵子たちは端から順に患者さんの包帯を解き始めた。二日前に千恵子が蛆虫を取った山内一等兵の傷口には蛆虫がいなかったのでホッとした。もう大丈夫と安心していたら、他の患者さんから蛆虫が出て来た。

「痛くなかったんですか」と聞いたら、痛くはないけど、かゆくてしょうがなかった。かゆいのは治っている証拠だろうと我慢していたと言った。千恵子はピンセットで蛆虫を掻き出した。奥の方にいる蛆虫がなかなか取れなかったけど、治療班が来るので、まあ、いいかと次の患者さんの包帯を解きに行ったら、

「チーコ、まだ、蛆がいるわよ。ちゃんと取ってよ」と晴美が言った。

 一匹くらい晴美が取ってよと言いたかったけど、何も言わずに戻ったら、

「一匹や二匹、残しておいた方がいい。蛆が悪いバイ菌をみんな食ってくれるからな、破傷風(はしょうふう)にはならないだろう」と梅田軍医が言った。古波蔵看護婦もそんな事を言っていたのを思い出した。

「本当なんですか」と千恵子は聞いた。

「本当だとも、蛆虫が傷口の消毒をしてくれるんだよ。一匹や二匹は残しておけ」

「はい」と返事したけど、千恵子には不可解だった。でも、無理して奥の方の蛆虫を取らなくて済むので助かった。

 十一人の患者さんから蛆虫が発見された。痛みをじっと我慢していたという患者さんもいたけど、かゆいという患者さんも何人かいた。体中が痛いので、蛆虫の事なんか気にならなかったという患者さんもいた。それにしても、この二、三日で十人もの患者さんから蛆虫がわくなんて先が思いやられた。その内、全員の傷口から蛆虫がわくに違いない。蛆虫取りが毎日の日課になるのは間違いなく、早く戦争が終わる事を願うばかりだった。







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