沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲





第二部




18.破傷風患者と脳症患者




 傷も治って、もうすぐ退院できると喜んでいた和田上等兵が突然、苦しみ出した。熱を出して唸っていたと思ったら、全身が痙攣(けいれん)を起こして体が弓のように反り返った。破傷風(はしょうふう)に違いなかった。破傷風の事は東風平にいた時、講義で教わったので覚えていた。

 破傷風菌は土の中に必ずいて、道端に落ちている古クギや空き缶や木片にもいるので、怪我をしたら傷口を必ず消毒しろ。傷口が深い場合は抗毒素血清(こうどくそけっせい)を注射すれば破傷風菌は死ぬ。ただし、血清注射は初期の頃でないと効果はないと教わった。

 和田上等兵は四月十五日に入院していた。両足を艦砲の破片でやられたが軽傷だった。入院した時、破傷風予防の血清注射を打ったはずだった。一月も経ってから破傷風になるなんておかしかった。最近、怪我をしなかったか聞きたかったけど、すでに口が硬直してしまって、しゃべる事はできなかった。千恵子はすぐに古堅看護婦を呼んだ。

「破傷風だわ」と古堅看護婦も言った。そして、千恵子と同じように今頃、破傷風になるなんておかしいと言ってから、何か思い出したかのように振り返ると、「平良(たいら)さん、ちょっと来て」と小百合を呼んだ。

 広口瓶で作った尿器を持ったまま小百合が来た。

「何ですか」と言いながら、小百合は古堅看護婦と千恵子の顔を見比べた。

「まず、それを捨てて来て」と古堅看護婦は言った。小百合は返事をして尿を捨てに行った。戻って来ると古堅看護婦は小百合に聞いた。

「四、五日前、この患者さんが怪我したとか言ってなかった?」

「どうかしたんですか」と小百合は言って、痙攣を続けている和田上等兵を見た。

「あっ、もしかしたら」と小百合は驚き、「破傷風なんですか」と聞いた。

 古堅看護婦はうなづいた。

「五日、いえ、六日位前だったかしら、夕方の艦砲がやんだ時、和田さんが歩く練習をしなくちゃならんて、(つえ)をつきながら外に出て行ったんです。あたしも汚物捨てや水汲みで忙しかったので、どこで怪我したのか知らないんですけど、帰って来たら、まだ駄目だ、転んじまったと言って(ひざ)の辺りを怪我していました。大した事ないから大丈夫だって言ったけど、一応、消毒してやりました。その時の怪我が原因なんですか」

「多分ね」と古堅看護婦はうなづいた。

「もう手遅れなんですか」と千恵子は聞いた。

「残念ながら、ここまで進行してしまうと、もうどうしようもないわね」

「あの時、血清注射を打っておけばよかったんですね」と小百合が青い顔して言った。

「そうね」と言って、古堅看護婦は千恵子と小百合を第三坑道の方に誘った。

「あなたたちには教えておくけど、もうないのよ。五月に入った時点で、もう破傷風の血清はなくなっちゃったのよ。この病院の収容患者は五百人の予定だったの。それが今、分院も入れたら優に千人を越えてるわ。破傷風の血清は負傷者には必ず、打たなければならないから、もう終わってしまったのよ。海も空も敵に封鎖されて補充も効かないから、どうしようもないわ。これから破傷風の患者さんが増えて来るのは目に見えてるけど‥‥‥」

 古堅看護婦は悔しそうに首を振った。「でも、患者さんたちにはその事は言わないでね。必死に苦痛と戦っている患者さんたちを絶望させたくはないからね」

 自分のせいだと思っていた小百合はホッとしていた。でも、苦しんでいる和田上等兵を救う手立てがないのは残念だった。前線に行って敵を倒してやると張り切っていたのに、助ける手段がないのが悔しかった。それに、破傷風の血清がないという事は千恵子たちが破傷風になるという恐れもあった。これからは怪我をしないように充分に気をつけなければならなかった。

 その後、破傷風患者が続出した。皆、五月以降に入院した患者さんで、入院してから一週間以上が経っていた。和田上等兵のように突然、全身が痙攣を起こす場合は少なく、最初、口が開かなくなって言葉がしゃべれなくなった。やがて、手足が痙攣して全身の痙攣となった。痙攣は数分から十分以上も続く事もあり、ひどい時には痙攣したまま寝台から落ちてしまう事もあった。上段から落ちたら危険なので、破傷風の患者さんは下段に移動させた。痙攣している時、喉が詰まると窒息死してしまうので、泡を吹いていたら綺麗に拭き取ってやるようにと古堅看護婦に言われた。

 破傷風患者が痙攣で苦しんでいる中、蛆虫で苦しんでいる患者も多くなっていた。治療班が来た当日は皆、気持ちよさそうにしているのに、二日あるいは三日が経つと、痛いとか、かゆいとか騒ぎだし、包帯を解くと蛆虫が(うごめ)いていた。可哀想なのは艦砲の破片で下顎(したあご)を半分取られた田中上等兵だった。右手を切断されて、左手も動かせず、口の中に蛆虫がいっぱいわいていても自分ではどうする事もできず、ウーウー唸っているだけだった。もう気持ち悪いとか言っている場合ではなかった。蛆虫取りが千恵子たちの重要な仕事になっていた。

 五月一日に原田軍曹が第六外科の最初の退院者として退院して以来、十人の患者さんが退院して原隊に戻って行った。皆、勝って来ますと言って、照明弾と艦砲弾の炸裂(さくれつ)する中を前線へと向かって行った。このひどい状況下で退院できるのは余程、運のいい人で、亡くなってしまう患者さんの方が圧倒的に多かった。化膿止めの薬もなくなってしまったのか、五月に入ってから手足を切断された患者さんは、ガス壊疽(えそ)を起こして亡くなってしまう場合が多く、おなかに重傷を負った患者さんも助からなかった。軍医さんは水をやるなと言うけど、もう駄目だなと思う患者さんには水をあげる事にしていた。患者さんはうまそうに水を飲んで、お礼を言ってから亡くなった。亡くなってしまうのは悲しいけど、千恵子たちにできるのはそれしかなかった。

 亡くなった人も二十人位までは数えていたけど、毎日のように亡くなって行くので、もう数えるのもやめてしまった。多分、三十人は越えただろう。以前は、亡くなっても埋葬地に運ぶまでは、そのまま寝台に寝かせておいたのに、今では、すぐに寝台を空けなければならなくなった。亡くなった患者さんは必要な手続きを済ませた後、毛布にくるまれて、壕の入口近くに置かれ、朝晩の敵の攻撃がやむ時間に埋葬地に運ぶ事になっていた。

 今夜は二人の患者さんが一緒に退院して行き、すぐに新しい患者さんが二人入って来た。その後、一人の患者さんが亡くなった。三日前に入院したばかりの両腕を切断されて、胸部に重傷を負った患者さんだった。喉に穴が空いていて、呼吸の度にヒューヒュー音がなって、勿論、食事もできなかった。

「笛の音がしなくなったぞ」と近くに寝ている白井伍長が言ったので行ってみると、もう呼吸は止まっていた。何もしてあげられなかった事が悔やまれた。

 遺体を衛生兵に頼んで入口まで運んでもらい、千恵子が寝台を直していると、突然、誰かが後ろから抱き着いて来た。悦子がふざけているのかと思ったけど違った。ヘッヘッヘと笑う声がして、髭面が頬に触った。強い力で持ち上げられて、千恵子は悲鳴を上げた。

「助けて!」と叫びながらもがいたけど、振り払う事はできなかった。悦子にも助けを求めたのに、悦子は呆然と立ち尽くしたままだった。患者さんたちも騒ぎだし、千恵子を助けようとした患者さんが蹴飛ばされてしまった。胸を締め付けられて気が遠くなりかかった時、衛生兵が飛んで来て助かった。

「大丈夫か」と聞かれ、千恵子は座り込んだままうなづいた。

 助けてくれたのは上田上等兵と外間(ほかま)一等兵だった。上田上等兵は陸軍記念日の時、女装して『湖畔の宿』を歌った人で、外間一等兵は沖縄の人で、時々、真面目な顔して冗談を言う面白い人だった。二人とも上の手術室から病棟への患者さんの運搬に当たっていた。

 千恵子は二人にお礼を言った後、抱き着いて来た男を見た。驚いた事に、素っ裸で子供のように泣きじゃぐっていた。胸に重傷を負って先月の末に入院した患者さんだった。高熱があって毎日唸っていて、起きられる状態ではなかったのに、突然、どうして起きられるようになったのか不思議だった。しかも、胸に巻いていた包帯を解いて、ふんどしまで外していた。ふさがりかけていた傷口が開いて血が流れていた。

脳症(のうしょう)だな」と上田上等兵は言った。

 脳症というのは看護教育で教わっていなかった。千恵子は上田上等兵に質問した。

「脳が冒される病気を総称して脳症と言っているんだよ。高熱が続いて脳細胞がやられる場合もあるし、ガス壊疽菌(えそきん)が脳を冒す場合もある。早い話が気が狂ってしまうんだ。こうなってしまえば、もう、痛みも感じないし、自制心もなくなる。大抵は子供のようになってしまうが、時には凶暴になる奴もいるから気をつけろ」

 上田上等兵と外間一等兵は駄々をこねている患者さんを寝台に戻し、念のためにと言って、寝台に縛り付けた。寝台に散らかっていた包帯を片付けた千恵子は、「これ、巻いた方がいいですよね」と聞いた。

「今はまだ興奮してるから落ち着いてからの方がいいだろう」と上田上等兵は言ってから、「あっ、忘れてた」と言って、外間一等兵を促して、第二坑道の所に戸板に乗せたまま置きっ放しの新しい患者さんを連れて来た。

 千恵子は所定の手続きをして新しい患者さんを受け取り、二人にお礼を言った。

「美里さん。奴が暴れたら、すぐ呼んで下さいよ。上の壕にいますから」と外間一等兵が言った。

「お前を呼ぶために、わざわざ上の壕まで行く奴があるか」と上田上等兵が笑った。「美里さんが襲われたら助ける奴はこっちにもいくらでもいるさ」

「それもそうですね」と二人は笑いながら帰って行った。

「チーコ、もてるのね」と悦子が言った。

「なに言ってるの。冗談に決まってるでしょ」

「でも、大丈夫だった?」

「うん、大丈夫よ」

「ごめんね。あたし、びっくりしちゃって、もう、体が動かなくなっちゃって」

「いいのよ。突然だったもの。びっくりするのは当然よ。それにエッコの力じゃとても無理よ。ほんとに馬鹿力なんだから。あたし、絞め殺されちゃうかと思ったわ」

「ほんと、恐ろしいわ。この人、軍曹だったのね」悦子がそう言ったので、寝台に貼り付けてある名前を見たら小島軍曹と書いてあった。軍曹ともあろう人が素っ裸で暴れ、寝台に縛られて、子供のように泣いているなんて情けない事だった。

「お母ちゃん、痛いよう」と泣き叫んでいて、うるさく、回りの患者さんたちが文句を言っていたが、千恵子たちにはどうしようもなかった。困っていたら、外間一等兵が来て、「こんな事だろうと思ったよ」と小島軍曹に注射を打った。

 何の注射ですかと聞いたら、麻酔だという。小島軍曹はしばらくして静かになった。

 朝の六時、古堅看護婦が出勤して来て、小島軍曹の事を話すと、

「とうとう脳症患者も出て来たのね」と首を振った。「このまま縛っておいても、返ってうるさいだろうから、縄を解いて、少し様子を見ましょう」

 小百合と二人掛かりで、傷口を消毒して胸に包帯を巻いた。また暴れ出さないかと心配だったが、麻酔が効いているのか、千恵子の勤務が終わるまで、ずっと眠り続けていたので助かった。

 勤務が終わった後、井戸端で脳症患者の事を皆に話したら、第六外科だけではなかった。第二外科でも第七外科でも上の壕でも現れていた。

「訳のわからない事をずっとブツブツしゃべり続けて、突然、大声で怒鳴ったり、大笑いしたりするのよ」と第二外科の美紀は言った。

「ブツブツ言ってるくらいならいいわよ」と第七外科の喜代は言う。「あたしんとこなんて、裸で走り回るのよ。水くれ、水くれって言いながら。そして、この前なんか、おしっこを飲んじゃったんだから」

「おしっこを」と千恵子たちは驚いた。

「そうなのよ。信じられないけど本当なのよ。ゴクンゴクンて全部飲んじゃって、満足そうな顔してるのよ。水もおしっこも区別ができなくなってるのよ」

「上の壕なんてもっとひどいのよ」と初江が言った。初江もすっかり病から立ち直って、シラミがわいてうっとおしい三つ編みを短く切って包帯でくくっていた。

「もう盛りのついた犬みたいに裸でウロウロして、あたしたちを見ると飛びついて来るのよ。この前なんか、トヨ子に抱き着こうとして、トヨ子に平手打ちを食らわせられたのよ。暴れだすかと思ったら、キョトンとしてから項垂(うなだ)れて引き上げて行ったわ。まるで、怒られた犬が尻尾を振りながら逃げて行くみたいだった。その時から、トヨ子は衛生兵の人たちから、伍長殿って呼ばれてるのよ」

「トヨ子らしいわ」とみんなで笑い転げた。

「でも、どうして脳症患者って裸になるの」と美紀が聞いた。

「暑いからでしょ」と初江が言った。「恥ずかしいとか、軍人の誇りだとか、そんな感覚はもうないのよ。ただ暑いから着ている物を脱いじゃうのよ」

 千恵子が勤務に出て行くと、小島軍曹は相変わらず裸のままだったが、寝台の上でおとなしくしていた。悦子に大丈夫だったと聞くと、「まあ、何とかね」と軽く笑った。

「麻酔から覚めたら寝台から降りて来て、ブツブツ独り言を言いながら小百合に抱き着こうとしたのよ。でも、すぐに古堅さんが気づいて、思い切りビンタを食らわしたの。そしたら、痛いようと泣きながら戻って行ったのよ」

 トヨ子の場合と同じだった。脳症患者は子供に返る場合が多く、そういう患者は母親になったつもりで強きに出れば逆らう事は滅多にない。ただ、本能むき出しに凶暴になる場合も時にはあり、そういう患者は隔離して置かなければならない。今の所、隔離する場所はないけど、軍医さんと相談して、いい手段を考えると古堅看護婦は言っていたらしい。

 千恵子と悦子の二人だけの時、またフラフラと出て来たので、千恵子が仁王立ちしてビンタを食らわせようとしたら、小島軍曹は打たれる前に、痛そうな顔をして頬を押さえた。千恵子が寝台の方を指さすとすごすごと戻って行った。千恵子はホッと胸を撫で下ろした。

 破傷風に罹った和田上等兵は十八日の夜、体を硬直させたまま息を引き取った。千恵子と小百合は和田上等兵がいつも口づさんでいた『白蘭(びゃくらん)の歌』を歌って、冥福(めいふく)を祈った。

 和田上等兵は故郷の愛媛県に婚約者がいて、二人で見た映画『白蘭の歌』の話をよく千恵子たちに聞かせてくれた。婚約者は李香蘭(りこうらん)(白蘭の歌の主演女優)のような美人なんだよと、いつも自慢していた。でも、写真を見せてもらうと李香蘭には全然似ていなかったけど優しそうな人だった。もうすぐ退院して前線に行き、戦争に勝ったら飛んで帰るんだと言っていたのに、破傷風で苦しんで亡くなるなんて可哀想すぎた。

 まもなく敵の攻撃がやむ時刻、千恵子と小百合は和田上等兵を埋葬地に運ぶために、第三坑道の入口近くに来ていた。夜が明けて、外はもう明るくなっていた。

 第三坑道の入口前には前線から送られて来た負傷兵が五、六人、戸板に乗せられたまま並んでいた。手術室のある上の壕の前は勿論の事、どこの壕の前にも負傷兵は並んでいた。危険を冒して夜中に負傷兵を運んで来ても、病院壕には入れてもらえず、困り果てて壕入口前に置いて帰ってしまうのだった。毎朝、敵の攻撃がやんでから衛生兵たちが広場にある擬装網の下に運んでいた。

「今日も暑くなりそうだな」と誰かが声を掛けて来たので振り返ると矢野兵長だった。

「もう暑くてたまりませんよ」と言いながら千恵子は顔の汗を拭いた。(すす)で黒くなっている顔を矢野兵長に見られたくなかったけど、もう手遅れだった。

 矢野兵長は奥の坑道にある寝台で寝ていたが、そこが第九病棟になってしまい、上の壕に移動した。上の壕も病棟になると、そこも追い出されて、衛生材料などの倉庫になっている壕に移ったらしい。千恵子たちが奥の方に寝台を詰めた後は、第一坑道に移って来て、時々、井田伍長や古波蔵看護婦と一緒に酒を飲んでいた。勤務中に病院壕にいる事は滅多になく、どこかに行っているようだった。

「矢野兵長さんが手伝ってくれるんですか」と千恵子は毛布にくるまれた遺体を示しながら聞いた。

「そうだよ。俺じゃ頼りないのか」

「いえ、そうじゃなくて、兵長さんが来るなんて珍しいので」

「なに、もう兵長だの軍曹などと言ってる場合ではなくなったよ。衛生兵だろうが武器を持って前線に行かなくてはならない状況になっているんだ。まったく、ひどい有り様だよ。今度こそ、二十七日の日本軍の勝利を祈るばかりだな」

「二十七日に総攻撃があるんですか」と小百合が目を輝かせて聞いた。

「多分な」と矢野兵長はうなづいた。「五月二十七日は海軍記念日なんだよ。今度こそ、連合艦隊が出撃して来るだろう」

 千恵子と小百合は指折り数えた。あと九日だった。あと九日間、頑張ればいいんだと思うと急に力がわいて来て、知らずに笑いがこぼれて来た。

「危ない、伏せろ!」と入口にいた歩哨兵が怒鳴ったのと同時だった。物凄い爆発音が響き渡り、千恵子は爆風で飛ばされた。

 辺りが急に静かになった。千恵子は顔を上げた。

 小百合が壁に寄り掛かったまま両足を投げ出して座り、目を見開き、口をポカンと開けていた。爆風を飲んでしまったのかと千恵子は慌てて側まで行くと小百合の体を揺すった。小百合は気が付いたかのように千恵子を見ると入口の方を指さして、口を動かした。

 誰かが千恵子の背をたたいた。振り返ると矢野兵長が口をパクパクさせていた。小百合を見ると小百合も口をパクパクしている。もしかしたら、耳が聞こえなくなってしまったのかと千恵子は首を振った。やがて、耳がキーンと鳴って聞こえるようになった。

「おい、大丈夫か」と矢野兵長が言っていた。

「チーコ、チーコ」と小百合が呼んでいた。

「大丈夫、大丈夫よ」と千恵子は言ってから、我が身を見回した。血は出ていないし、痛みもどこにもなかった。助かったとホッと溜め息をついた。

 第三外科の比嘉看護婦と照美がポカンとした顔して立ち尽くしていた。千恵子も入口の方を見て、愕然(がくぜん)となった。

 負傷兵が並んでいた所が直撃されて、大きな穴があいていた。そこにいた負傷兵たちの体はバラバラになって飛び散っていた。ちぎれた手や足が転がり、脳みその出た頭も転がっている。回りの樹木にも飛び散った内蔵や手足が引っ掛かっていて、血がポタポタと垂れていた。まるで、地獄絵そのものだった。

「あたし、見てしまったのよ」と言いながら小百合が泣いていた。千恵子は背中を向けていたけど小百合は入口の方を向いていたので、負傷兵がやられる瞬間を見たのかもしれなかった。

「小百合、大丈夫よ。あたしたちは無事だったのよ」千恵子はショック状態の小百合を慰めた。

 やがて、敵の攻撃がやんで静かになった。矢野兵長と歩哨兵が外に出て行った。何げなく天井を見た千恵子は恐ろしさで身震いした。艦砲弾の鋭い破片がいくつも天井に突き刺さっていた。







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