沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲





第二部




19.梅雨




 敵の攻撃は激しさを増して、至近弾が落ちると病院壕は押し潰されるかと思うほど揺れた。天井から岩のかけらがポロポロと落ちて来て、ランプが消えて真っ暗になる事もあった。こんな所で生き埋めにされるなら、外に出て死んだ方がいいと何度も思った。太陽、あるいは星を見ながら、新鮮な空気を思い切り吸ってから死にたいと思った。でも、実際に外に飛び出すのは不可能で、自殺行為に等しかった。

 艦砲の嵐は(すさ)まじく、八重瀬岳を覆っていた樹木は吹き飛び、あちこちに穴があいて、すっかり地形が変わっていた。富盛の集落も井戸は何とか無事だけど、ひどい有り様で、家々が潰れて瓦礫(がれき)の山になっていた。敵の攻撃がやむ朝夕の一時間以外は外に出られなくなり、その時間になると一斉に井戸まで行って水を汲んで、食罐を洗い、包帯も洗い、顔も洗った。その時に汲んだ水だけで十二時間持たせるのは大変だった。千恵子たちは患者さんたちの水筒を借り、幾つも肩からぶら下げて、できるだけ多くの水を確保するようにしていた。

 食料も底をついてしまったのか、麦飯の量もだんだんと少なくなって行った。ピンポン玉のよう小さなおにぎりが一人一個づつしか行き渡らず、空腹とも戦わなければならなかった。それだけではとても我慢ができないと独歩(どっぽ)患者(一人で歩ける患者)は空襲がやむとサトウキビを取って来てはかじっていた。千恵子たちもやるべき事をやった後、時間が余ると畑に行ってサトウキビを取って来て、みんなで分けてかじった。

 ある朝、敵の攻撃が始まっても小百合が帰って来ないので心配していると、キャベツを抱えて戻って来た。

「どうしたのよ。やられちゃったと思って心配してたんだから」

「ごめん、ごめん、サトウキビを取っているうちに方向がわからなくなっちゃったのよ。敵の攻撃が始まったんで、慌てて帰ろうとしたら変な所に出ちゃったの。そしたら、目の前にキャベツがあるじゃない。サトウキビはいつでも取れるから、キャベツを抱いて、やっと帰って来たのよ。ねえ、これ食べましょうよ」

 包丁もナイフもないので、手でちぎって食べたけど、何ておいしいんだろうと感激した。何も付けない生のキャベツがこんなにもおいしかったなんて初めて気づいた。患者さんたちに分けて与えると患者さんたちも喜んでくれた。

 夕方、敵の攻撃がやむと水汲みをさっさと済ませて、千恵子と小百合は第五外科の和美と鈴代を誘ってキャベツ取りに出掛けた。

 和美はアメーバ赤痢に罹って入院していたけど、二日前に退院して勤務に復帰していた。全快とはいえないが、みんなに迷惑はかけられないと頑張っていた。限界を越えた疲労と栄養不足で誰もが半病人の状態で、誰が倒れてもおかしくなかった。昨日は房江が倒れて入院してしまった。第十外科は古波蔵看護婦と恭子の二人だけになってしまい、第二外科から交替で助っ人に行くようになったらしい。

 キャベツ畑の噂はあっと言う間に病院内に広まり、みんなが取りに行ったので、畑のキャベツはすぐになくなってしまった。サトウキビにしろキャベツにしろ、他人の畑の作物で、勝手に取って食べるのは盗みと同じだったが罪の意識はなかった。放って置いても、どうせ、艦砲にやられてしまう。それなら、食べた方がいい。生きて行くためには仕方ないんだと正当化していた。

 二十一日から雨が降り始めた。雨は毎日、降り続いて梅雨に入ったようだった。お陰でトンボもグラマンも飛んで来なくなったけど、艦砲がやむ事はなく、あちこちに穴をあけ、その穴に雨水が溜まって大きな水溜まりがいくつもできていた。たとえ、土砂降りだろうと水汲みや食罐洗いはしなければならなかった。雨具はなく、防空頭巾も上着もモンペも下着まで、びしょびしょに濡れた。仕方なく、取っておきの着替えを下ろしたけど、それもすぐに濡れ、寝台の所に干しておいても乾く暇はなく、カビが生えてしまう事もあった。千恵子たちは濡れた服を着たまま仕事に励み、休む時だけ支給された軍服の半ズボンと制服の上着を着て眠った。

 井戸への坂道はグチャグチャの泥んこ道になり、雨水が川のように流れていた。水溜まりがあちこちにあって、ただの水溜まりだと思って歩くと、予想外の深さで足を取られる事も何度かあった。千恵子たちが勤務中に出入りしていた第三坑道の前にも大きな水溜まりができていた。並んでいた負傷兵が吹き飛ばされた時の穴だった。皆、泥だらけの足をそこの水溜まりで洗ってから病院壕に戻っていた。

 千恵子たちは地下足袋(じかたび)を履いていた。入隊された時に支給された軍靴(ぐんか)を履いている子もいたけど、大きすぎるので地下足袋を履いている子の方が多かった。その地下足袋もかなりくたびれて来ていた。もう一つ、予備を持っているけど、それだけは勝利の日、凱旋(がいせん)するまで取って置かなければならなかった。

 その水溜まりは足を洗うだけでなく、包帯を洗うのにも役に立った。艦砲のやむ朝夕の一時間は、やるべき事が多くて、なかなか包帯洗いまで手が回らなかった。治療班が来るのは五日置きとはいえ、山のような包帯を洗うのは大変だった。千恵子たちは汚れた包帯を水溜まりに浸して蛆虫を落とし、一斗罐に雨水を汲んで壕内に戻り、リゾール液を入れて包帯を洗った。

 二十三日の夜、千恵子は騒々しい物音で目が覚めた。

「どうなってるのよ、もう」と利枝が怒っていた。

 何だろうと起き上がって見たけど、よくわからなかった。

「利枝、何を騒いでるの」と聞くと、「チーコ、これを見てよ」と利枝は通路を指さした。

「何か落としたの」

「違うわよ。これよ」と利枝は通路を撫でた。バシャバシャと音がして水が跳ね上がった。

 ようやく、ただ事でない事を悟って千恵子は寝台の上から身を乗り出して通路を見た。

「ねえ、どれくらい溜まってるの」

「十センチ以上あるわね。これじゃあ、おちおち寝てなんかいられないわよ」

 下段の寝台は三十センチ位の高さしかないので、顔のすぐ下まで水が来ていた。

「雨水が入って来たの」

「多分ね。今、晴美が入口の方を見に行ったわ」

「あっ」と千恵子は地下足袋を通路に置いたままだったのを思い出した。

「ねえ、その辺にあたしの地下足袋ない?」

「みんな、奥の方に流されちゃったのよ。あたしの靴だって和美の所まで流されていたんだから」

 千恵子は寝巻用の半ズボンのまま静かに寝台から降りた。確かに十センチ以上、水が溜まっていた。

「ねえ、ガラスのかけらとか古クギとかないわよね」

「あるかもしれないわ。この前、揺れた時、ランプが落ちて割れたのよ」

「そんな‥‥‥」

「気を付けてよ」

 怪我をして破傷風になるのが怖かった。和田上等兵のように全身痙攣(けいれん)を繰り返して死にたくはなかった。千恵子は足元を気を付けながら少しづつ前進した。

 晴美の上に寝ていた美紀も文句を言いながら地下足袋を捜していた。

「そこにいくつかあるわよ」と美紀は言った。

 澄江の寝台の下にサトウキビの殻やゴミと一緒に地下足袋がいくつか固まって浮いていた。全部、拾おうと思ったけど、まず、自分のを捜して履くのが先だった。一足はあったけど、もう一足はなかった。とにかく、あった方の足袋を履いて、もう一足を捜した。奥にある信代の寝台の下を和美が覗いていた。

「ねえ、その辺にあたしの地下足袋、ない?」と千恵子は和美に聞いた。

「ここに一つ、引っ掛かってるんだけど、なかなか取れないのよ」和美はサトウキビの殻で取ろうとしていたけど難しいようだった。

天秤棒(てんびんぼう)なら取れるんじゃない」と千恵子は言った。

「そうね。チーコ、お願い。持って来て」

「待ってて」と言って千恵子は奥へと進んだ。

 奥に進むに従って浅くなって来て、看護婦さんたちが寝ている奥の坑道はそれ程、水は溜まっていなかった。なぜか、二高女の宿舎だけが水浸しで、平らに掘ってあるように見えたけど、そうではなかったようだ。足元を確かめながら壁に沿って歩き、水瓶(みずがめ)の側に置いてある天秤棒を持って戻ると和美の姿はなかった。自分の寝台に戻って濡れた足を拭いていた。

「和美、取れたの」と聞くと、「あっ、ごめん。何とか取れたのよ」と寝台の上に置いた地下足袋を見せた。

「和美のだったの」

「うん。あたしのだった」

 千恵子は天秤棒を持って、寝台の下を覗いて回った。ようやく見つかり、喜んで地下足袋を拾って腰を伸ばしたら、そこは自分の寝台の所だった。馬鹿みたいと思いながらも、ホッとして勤務中の房江の寝台に腰掛けて、両足に足袋を履いた。

「まったく、ひどいわ」と言いながら晴美が戻って来た。

「ねえ、どうなってるの。向こうもこんな状態なの」と千恵子は聞いた。

「ここだけなのよ、こんなに水が溜まってるのは。まったく、頭に来るわ。第七外科なんて全然溜まってなくて、歩哨の人なんて、全然知らなかったのよ」

 晴美の話だと、この雨水は入口から入って来たのではなくて、直撃弾を受けて落盤した薬剤室から第八外科を通って流れて来るのだと言う。穴はちゃんと塞いだはずなのに、雨が降り続いたので、どこかが崩れて雨が入って来たに違いない。落盤の後、薬剤室の前の通路は土砂に埋まっていて通れなかったが、そこが通れないと不便なので、土砂を掘り返して通れるようになっていた。ただ、すべての土砂を外に出さずに道を作ったので、かなりの坂になっていて、薬剤室からの雨水は当然、中央坑道の方へと流れて来る。それが第八外科を通って、千恵子たちの寝台の方へ流れ込んで来たのだった。

「今、衛生兵の人たちが薬剤室の方を調べてるから、これ以上は増えないと思うけど」そう言いながら晴美は地下足袋を脱いで寝台に上がった。「もうびしょびしょよ」と地下足袋の水をしぼった。

 晴美の隣の上で寝ていた美智子が起きて、地下足袋がないと騒ぎ出した。

「ちょっと待ってて」と千恵子は言った。さっき、美智子の名前のある地下足袋を見ていた。千恵子は美智子の地下足袋を拾って来て渡した。

 足が濡れたついでに、千恵子は中央坑道の方を見に行った。中央坑道の近く、以前、千恵子が寝ていた寝台の辺りはそれ程、水は溜まっていなかった。でも、第八外科の方から流れて来たのか、サトウキビの殻やゴミが散らかっていた。どうやら、二高女の宿舎が一番低くなっていて、流れて来た雨水は皆、あそこに溜まるようだった。

 第八外科に入って行けば患者さんに捕まるので帰ろうとして、ふと、奥の坑道の方は大丈夫なのだろうかと思った。落盤した薬剤室からの雨漏りなら、奥の坑道の方へも流れるはずだった。千恵子は行ってみた。

 看護婦さんたちは誰も騒いでいなかった。皆、気持ちよさそうに眠っている。以前、手術室だった薬剤室には誰もいなかった。その向かい側の坂道の手前に土嚢(どのう)がいくつも積んであり、雨水を止めていた。井田伍長と三人の衛生兵が、塞いでいた戸板を外して、ランプと懐中電灯で崩れた薬剤室の中を照らしていた。井田伍長がいれば大丈夫だろうと安心して戻った。

「ねえ、この水、どうするの」と千恵子は晴美たちに聞いた。

「衛生兵の人たちが何とかしてくれるんじゃないの」横になったまま晴美が言った。

「そうよね。衛生兵の人もここで寝てるんだし」

「まだ時間があるわ。もう少し寝ましょうよ」と利枝があくびをした。

「そうね」と千恵子も寝台に戻った。地下足袋は水をしぼって、足元の所に置いた。

 衛生兵が何とかしてくれるだろうと思っていたが甘かった。四時頃、起こされて、衛生兵と一緒に雨水を汲み出さなければならなかった。水汲み用の一斗罐や炊事場で借りた鍋や洗面器やらで入口まで何往復もして水を汲み出した。千恵子たちの寝台がある辺りは一番低地になっていて最後まで水が溜っていた。空き缶や広口瓶などですくい、最後はボロキレで吸い取って、ようやく綺麗になった。看護婦さんも手伝ってくれたので一時間も掛からなかったけど、勤務前にもう疲れ果ててしまった。

 もしかしたら第六外科も水浸しじゃないかしらと心配したけど大丈夫だったので安心した。悦子に聞いたら、第八外科のスミ子が滑って転びそうになって、真栄城看護婦が雨水が流れているのを気づき、衛生兵を呼んで来て土嚢を積んだのだという。

「ここも濡れてたけど、そんなのは梅雨になってから、ずっとの事だから気にもしなかったわ。忙しくて、そんな事を気にする暇なんてなかったもの。まさか、あたしたちの寝床が水浸しだなんて思いもしなかった。それよりも、チーコ、本部の方が水浸しになったって大騒ぎだったのよ」

「えっ、本部が?」

「そうなのよ、第五坑道の方から雨水が入って来たらしいわ」

「そういえば、あそこ、少し坂になっていたわよね」

「そうなのよ。軍医さんたちが手抜きしやがってって、かんかんに怒ってたらしいわ」

「そう。それで、エッコ、下痢の方はどうなの」

 悦子は疲れた顔をして首を振った。

「特効薬は飲んだんだけど、なかなか止まらなくて。でも、チーコだって治ったんだから大丈夫よ」そうは言ったけど、すぐに「ごめん」と言って(かわや)の方へ飛んで行った。

 大丈夫よ、大丈夫よと言っていたけど、悦子は立っている事もできなくなってしまった。例の特効薬も悦子には効かなかったらしい。川平(かびら)婦長と相談して入院させる事になった。

 悦子がいなくなってから勤務交替までの三、四時間、千恵子は一人で頑張った。破傷風患者が痙攣(けいれん)を起こして寝台から落ちたり、脳症になった小島軍曹がフラフラと通路に出て来たり、ガス壊疽(えそ)で死亡する患者がいたり、蛆虫を取ったり、尿を取ったり、水をやったりと忙しかったけど、夕方に退院する江藤一等兵が何かと手を貸してくれたので助かった。

 千恵子はお礼を言って、江藤一等兵を送り出した。

「お礼を言うのはこっちの方です」と江藤一等兵は笑った。

「ここに連れて来られた当時、自分が情けなくて、このまま死んでしまいたいと毎日、死ぬ事ばかり考えていました。でも、あなた方の働く姿を見ているうちに自分が甘ったれていた事に気づいたのです。あなた方のような若い女学生が、こんなひどい状況の中で、文句も言わずに必死に働いている。手を膿だらけにして蛆虫までも取って、みんなを励ましている。まったく、感服しましたよ。自分にも女学生の妹がいますが、とても、あなた方の真似はできないでしょう。本当にお世話になりました。自分はこれから前線に行って、戦争を終結させるために立派に戦死して参ります。この戦争がいつまで続くのかわかりませんが、あなた方は絶対に死なないで下さい。みなさんによろしく」

 江藤一等兵の話を聞きながら、千恵子は涙ぐんでいた。自分たちの仕事を認めてくれる人がいて、苦しい毎日が報われたような気がした。

 雨はやむ事なく降り続いていたけど、井田伍長や矢野兵長たちが泥まみれになって雨漏りを治してくれたらしい。その話を小百合から聞いて、ふと、千恵子は安里先輩を思い出した。

 千恵子たちの小屋が雨漏りで困っていた時、安里先輩が康栄と一緒にやって来た。雨漏りする度に、父が応急処置をしてくれたけど、その場しのぎで、すぐに別の場所から雨漏りがしていた。屋根の修理の後、安里先輩は文学の話をしてくれた。千恵子はどんなに疲れていても、安里先輩から借りた『啄木歌集』は必ず読んでいた。二十四時間勤務になってからも、間違えないように気をつけながら歌の上に日付を書き入れ、余白には、その日の出来事を簡単に記入していた。新しく入院して来る患者さんから首里のひどい有り様を聞いて、安里先輩の事が気掛かりだったが、どこで何をしているのか知る(すべ)はなかった。四月になったら東京の大学に行くと言っていたけど、とてもそんな事はできなかっただろう。早く戦争が終わって、再会する事を夢見て生きて行くしかなかった。

 薬剤室の穴も塞がれて、もう大丈夫だと安心していたのに、三日後、千恵子たちが起きたら、また雨水が溜まっていた。この前、()りたので地下足袋は足元に置いて寝たので助かった。また、薬剤室かと思ったら、そうではなくて、夜中に豪雨が降り続いて、入口から入ってしまったという。入口には土嚢が積んであるが、雨の勢いが強すぎてどうにもならなかったらしい。

 二高女の宿舎だけでなく、どこの壕も水浸しになり、サトウキビの殻やゴミが浮いていた。みんなで雨水の汲み出しをやったけど、全部を出すのは不可能で、水溜まりがあちこちにできた。一々、水溜まりを避けていては仕事にならず、足は常に濡れていて、休む時に地下足袋を脱ぐと、足はふやけてしまっていた。







山部隊第一野戦病院の推定図



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