沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲





第三部




1.真栄平




 上の壕からさらに上の方へと泥の坂道に足跡がずっと続いていた。

 千恵子、小百合、悦子の三人は真栄平(まえひら)を目指して坂道を登った。泥に足を取られて、あちこちにある水溜まりに滑り落ちたりして歩きづらかったけど、雨がやんだので気分は爽快(そうかい)だった。二ケ月余りもいた臭くて蒸し暑くて水浸しの穴蔵暮らしとも、おさらばだと思うと嬉しかった。病み上がりの悦子も急に元気になったようなので一安心だった。

 トンボが飛んで来て、慌てて草むらに隠れ、泥だらけになってしまっても、お互いの顔を見て笑い合う余裕もあった。前を行く東風平分院の佳代たちに追いつこうと思ったけど、なかなか追いつけなかった。足に泥がまとわりついて重いし、時には膝まで泥の中に入ってしまって、引き抜くのに一苦労した。おまけに、ふやけてしまった足は痛くて思うように歩けなかった。

 今朝、病院壕を出た患者さんたちが坂の途中で座り込んでいた。片足がなく、片手を首から吊っていて泥だらけで顔もよくわからなかった。疲れ切った声で、水をくれと言ったけど、千恵子たちは水を持っていなかった。頑張って下さいと言うしかなかった。坂の途中で、そんな患者さんたちと何人も出会った。青酸カリをくれと怒鳴る患者さんや一緒に連れて行ってくれと頼む患者さんもいたけど、どうする事もできないのが辛かった。

 ようやく、山の上に出て南の方を見ると先に出た生徒や負傷兵がぞろぞろと歩いているのが見えた。その先に集落が見えた。

「あそこが真栄平かしら」と悦子が指で示した。

「きっと、そうよ。早く、行きましょ」と千恵子が小百合を振り返った。

 小百合の足は千恵子たちよりもひどい状態で、歩くのもやっとのようだった。

「大丈夫」と千恵子は心配した。

「大丈夫よ」と小百合が無理に笑った時、ドドドーンと艦砲の音が響き渡った。

 海の方を見るとずらりと並んでいる敵艦の大砲から次々と黒い煙が上がっていた。腕時計を見たら、もう六時になっていた。

 それからはもう死に物狂いの彷徨(ほうこう)だった。千恵子たちの回りに艦砲弾が次々に落ちて来た。ヒュッと音がしたかと思うと、すぐにバーンと近くで炸裂した。体を伏せる間もなく、泥をかぶり、破片がシュルシュルと音を立てて、すぐ側を飛んで行った。目の前を歩いていた負傷兵が轟音と共に吹き飛び、千恵子の側の水溜まりに落ちた大きな破片がジュッと音を立てた。こんなのが当たれば腕も足も首も、もげてしまうに違いない。

 もう、いやだ。こんな恐ろしい思いをするのなら、病院壕にいた方がよかったと何度も後悔した。泥の中に伏せては歩きの繰り返しで、ちっとも前に進まなかった。やがて、暗くなって、照明弾が次々に打ち上げられた。照明弾が上がっている時は明るくて道もわかるが、照明弾が消えてしまうと、月も星もない真っ暗闇になってしまい、方向さえもわからなくなってしまう。艦砲射撃はやむことなく、容赦なく千恵子たちの回りに落ちていた。どこか安全な壕に潜りたいと思っても、初めての土地なので、どこに何があるのか、まったくわからず、ただ、神様に無事を祈りながら身を伏せているしかなかった。

 続けざまに艦砲弾が千恵子たちの回りにいくつも落ちて来た。伏せていて泥をかぶり、慌てて体を探って無事を確認して、「ねえ、大丈夫だった」と千恵子は小百合と悦子に声を掛けた。

 返事がなかった。二人共、やられちゃったのと恐ろしくなり、千恵子は大声で、小百合と悦子の名を呼んだ。あちこちに落ちている艦砲弾の炸裂する音しか聞こえず、二人の返事はどこからも返って来なかった。真っ暗で何も見えず、千恵子はその場から動かずにじっとしていた。さっきまで、しっかり手をつなぎながら歩いていたんだから、そんなに遠くに行くはずはない。きっと、やられてしまったんだわ。千恵子は一人泣きながら泥の中にうずくまっていた。

 照明弾が上がって明るくなった。千恵子の後ろ十メートル位の所に大きな穴があいていた。それを見ると千恵子は悲鳴を上げながら駈け出した。

 突然、「静かにしろ!」と怒鳴られた。見ると武装した兵隊が三人、ガジュマルの木陰に隠れていた。剣のついた銃を千恵子に向けて、「電波探知機に引っ掛かる。静かにしろ」と怖い顔して(にら)んでいた。

「すみません」と千恵子は謝った。

 電波探知機というのは病院壕にいた時、入院していた患者さんから聞いていた。よくわからないけど、米軍は色々な最新兵器を持っていて、人の話し声を探知して、そこに集中攻撃をかけると言っていた。

 また真っ暗になってしまい、千恵子はその場にしゃがみこんだ。照明弾が上がり、ガジュマルの木の方を見ると兵隊たちの姿はなかった。千恵子はフラフラとガジュマルの木の下に行くとその木陰に隠れた。

 恐ろしさで体中が震えていた。口も震えて歯がガチガチ音を立てていた。止めようと思っても止められなかった。

 どうして、小百合と悦子はあたしを置いて()ってしまったの。たった一人で、これからどうしたらいいのよ。いっその事、あたしも死んでしまいたい。艦砲弾に当たって一瞬のうちに死んでしまいたい。千恵子は自分の体がバラバラに吹き飛ぶのを想像した。首がもげて脳みそが流れ出し、手足ももげて、はらわたもバラバラになって飛び散った。いつか、病院壕の前で見た光景と重なって、あんな死に方はいやだと首を振った。青酸カリを飲めば、もっと楽に死ねるのかもしれない。古波蔵さんにもらってくればよかったと思ったけど、真栄平まで行けば古波蔵さんに会えるかもしれないと考え直した。古堅さんもいるかもしれないし、佳代やトヨ子、初江や晴美もいるに違いない。頑張って真栄平まで行くのよと自分に言い聞かせて、千恵子は艦砲弾の炸裂する中に飛び出した。

 長かった夜が明け、辺りはシーンと静まり返っていた。空は曇っていて、また雨が降りそうな雲行きだった。

 千恵子はもうくたくたになって足を引きずりながら真栄平へと続く道を歩いていた。防空頭巾も顔も軍服の上着もモンペも何もかも泥まみれだった。そして、喉はカラカラだった。患者さんたちがいつも、「水をくれ」と騒いでいて、水の大切さは充分にわかっていたはずなのに、どうして水筒をもらって来なかったのだろうと悔やんだ。真栄平に行けば水がある。どうせ死ぬのなら思いきり水を飲んでから死にたいと必死になって歩いていた。

 村はずれに大きな墓があった。墓の中に隠れていたのか、墓の前の庭に年寄りや女子供が十人位、固まって食事の支度をしていた。ご飯を炊く、うまそうな匂いを嗅いだら急におなかが減って来た。千恵子がぼうっとして立ち止まっていたら、「チーコ」と誰かが呼んだ。死んだ小百合がお墓の中から呼んだのだろうかと声のした方を向くと、墓を囲んだ石垣の向こう側に小百合と悦子が目を丸くして立っていた。

「チーコなのね」と小百合が聞いた。

 千恵子はうなづいた。

「二人とも生きていたの」そう言いながら千恵子は泣いていた。

「チーコも生きていたのね」

 小百合と悦子も千恵子は死んでしまったものと諦めていた。朝(もや)の中から忽然(こつぜん)と目の前に現れたので、幽霊じゃないかと驚いたという。三人は無事の再会を信じられない事のように喜んだ。

 小百合と悦子は夜中の内にここまでたどり着いて、石垣の陰に隠れて夜が明けるのを待っていた。八重瀬岳周辺に比べれば、この辺りはまだ艦砲弾も集中して落ちないので石垣の陰でも大丈夫だったらしい。いつものように五時になって敵の攻撃がやむと、墓の中にいた住民たちと一緒に井戸まで水汲みに行き、またここに戻って来てご飯を炊いていたという。

 千恵子は水を飲ませてもらって、ようやく、生き返ったような気がした。

「ありがとう」と水筒を返そうとして、「あれ、こんな水筒、持っていたっけ」と小百合に聞いた。

「ちょっと借りたのよ」と小百合は笑った。「慌てて潜り込んだ岩陰に兵隊さんがいてね。水は空っぽだけど役に立つから持って行けってね」

「その兵隊さん、もう死んでいたのよ」と悦子が笑いながら言い足した。

「あの物凄い状況の中で生きて行くためには仕方のない事よ。水がなければ生きて行けないもの」

「そうよね」と千恵子もうなづいた。もう誰も頼りにできなかった。ここに来る途中、兵隊が隠れている壕がいくつかあったけど、どこに行っても入れてもらえず、あっちに行けと追い払われた。野戦病院であんなに親身になって負傷兵の看護をして来たのに、友軍の態度は冷たかった。もう、自分たちだけの力で生きて行かなければならないとつくづく感じていた。水筒だろうが食糧だろうが、たとえ、死んでいる兵隊から奪い取っても生き延びなければならなかった。

 炊事を足の痛い小百合に任せて、千恵子は悦子の案内で井戸まで行った。真栄平部落にはまだ焼け残っている民家がいくつもあって、それらには避難民や負傷兵が大勢入っていた。

「メーデーラって言うんだって」と悦子が言った。

 千恵子には何を言っているのかわからなかった。

「ここよ。地元の人はメーデーラって言うのよ」

「へえ、そうなんだ」

「村の外れにアバタガマっていう大きな自然洞窟があって、村の人たちはみんな、そこに隠れていたんだって。でも、兵隊さんがやって来て、みんな追い出されて、あのお墓の中にいるんだって言ってたわ」

「えっ、兵隊さんに追い出されたの」と千恵子は聞き直した。住民を守るために沖縄に来た兵隊がそんな事をするなんて千恵子には信じられなかった。

「本当なのよ。あのお墓にいた人たちも怒ってたわよ。友軍のために陣地作りの協力をしたり食糧も提供して来たのに、あんなひどい仕打ちをするなんて許せないって」

「そうなの‥‥‥」

 井戸には大勢の人がいて水汲みをしていた。住民や避難民、負傷兵たちに混ざって、明らかに女学生らしい娘が三人いた。千恵子たちと同じように軍服の上着にモンペ姿だったが、泥まみれではなかった。千恵子が声を掛けようとしたら、向こうから声を掛けて来た。

「あなたたち、二高女なの」

「ええ、そうよ。あななたたちは一高女?」

 お互いに胸に付けた校章を見ていた。一高女は白百合、二高女は白梅だった。

「ええ。二高女は東風平の野戦病院にいたって聞いたけど、撤退して来たの」

「東風平には分院があって、あたしたちは八重瀬岳にいたんだけど、昨日、閉鎖になったのよ。一高女は南風原にいたんでしょ。南風原からここに移って来たの」

「あたしたちは違うの。津嘉山の経理部にいたのよ。南風原の陸軍病院にいた人たちは伊原の方に行ったみたい」

「伊原ってどこなの」

真壁(まかべ)の南の方って聞いたけど、あたしたちもよく知らないのよ」

「そう‥‥‥」

 遅くなると怒られるからと一高女の三人は水を汲んだバケツを持って帰って行った。

 井戸で顔を洗い、泥だらけの防空頭巾も洗った。上着も洗いたかったけど、並んでいる人たちが早くしろというので、できなかった。病院壕から一斗罐を持ってくればよかったと思った。

 お墓に戻ると小百合と一緒に誰かがいた。人の事を笑えないが全身泥だらけで、誰だかわからなかった。

「聡子が来たのよ」と小百合が言った。

「よかった、みんなに会えて」と言いながら聡子は泣いていた。

「房江と恭子と一緒に出たんだけど途中ではぐれて独りぼっちで、艦砲の中を逃げ惑っていたんだって」と小百合が説明した。

「とにかく、お水を飲みなさいよ」と悦子が水筒を差し出した。

 聡子は首を振った。「お水はあるの。なくなったら大変だと思って少しづつ飲んで来たの」

「もう大丈夫よ。近くに井戸があるのよ。今、チーコを連れて行ったとこよ」

「顔を洗った方がいいわ」と今度は千恵子が聡子を連れて井戸に向かった。

 千恵子と同じように聡子も一緒にいた房江と恭子が死んでしまったと思い込んでいた。

「大丈夫よ。房江と恭子もきっと生きてるわよ」と千恵子は慰めた。

 井戸にはまだ大勢の人がいた。

「あれ」と言いながら聡子が指さした。見ると千恵子たちと同じように泥まみれの兵隊が二人いた。

「八重瀬岳から来た患者さんかしら」と千恵子が言うと、

「違うわよ」と聡子は言った。「あれはトヨちゃんとハッちゃんよ」

「えっ」と千恵子は驚いた。「だって二人とも鉄カブトをかぶってるわ」

「あたし見たのよ。あの二人、鉄カブトをかぶって出て行ったのよ」

 千恵子と聡子は二人の側に駈け寄った。泥だらけでよくわからなかったが、二人ともモンペをはいていた。千恵子と聡子が声を掛けると二人は振り返った。顔も泥だらけだったけどトヨ子と初江に間違いなかった。お互いに抱き合って無事を喜び合った。

 トヨ子と初江は、上の壕にいた四人と新城(あらぐすく)分院にいた二人と一緒になって出て行ったが途中ではぐれ、トヨ子も初江も独りぼっちになった。それでも暗闇の中で奇跡的に再会をして、二人で艦砲弾の中を逃げて来た。途中で、親切な兵隊に助けられて壕に入れてもらい、夜が明けてから真栄平目指して歩いて来た。部落に入るとバケツや空き缶を持った人たちがぞろぞろと歩いていたので、井戸に行くに違いないと後に付いて来たという。

 みんな、顔を洗ってさっぱりして、小百合と悦子が待つお墓に戻った。途中で六時になって艦砲射撃が始まった。八重瀬岳や与座岳の周辺が集中的に狙われ、この辺りにはそれほど落ちて来なかった。

 トヨ子と初江を連れて行くと小百合と悦子は驚き、無事だったのねと喜び合った。

 石垣にもたれて、おにぎりを食べていたら、トンボが飛んで来た。住民たちは一斉にお墓の中に隠れた。お墓の中はぎゅうぎゅう詰めで、千恵子たち六人が入る余裕はなさそうだった。トンボは機銃を撃たずに飛び去って行ったけど、このまま、ここにいるのは危険だった。千恵子たちは相談して部落の方に向かった。

 被害を受けていない民家はどこも避難民や負傷兵でいっぱいだった。千恵子たちが入り込む余地はどこにもなかった。どこかに空いている防空壕はないかと捜してみたが、防空壕はどこも、地元の住民たちが入っていた。

「駄目よ。真壁まで行けば空いてる家もあるんじゃないかしら」とガジュマルの木陰で相談していたら雨がザァーと降って来た。

 丁度いいわ。泥だらけの服を洗いましょと皆、雨の中に出て泥を落とした。びしょびしょになったけど、晴れればすぐに乾くわよと気楽に考えていたが雨は本降りになって、一向にやむ気配はなかった。

「いつまでもこんな所にいたら、また泥だらけになるわよ」と聡子が言った。

 道は泥んこになり、勢いの強い雨が泥を撥ねていた。

「あそこに行こう」とトヨ子が艦砲にやられて半ば崩れかけた民家を指さした。トヨ子はみんなの返事を待つ前に飛び出して行った。初江が後を追い、皆も後を追った。

 その民家はひどい有り様だった。柱は傾いて、床は抜け、壁板もあちこちはがされていた。それでも屋根が半分近く残っていて雨宿りはできた。家具はすでに持ち出したとみえて、何もなく、避難民も負傷兵もいなかった。

「あそこよりもましよ」と皆、荷物を下ろして一休みした。

 小百合は荷物を下ろすより先に地下足袋を脱いで、ふやけてしまった足を拭いていた。かなり痛そうだった。千恵子は濡れた上着を脱ぐと絞って、そこらに干した。

「物干し竿はないかしら」と絞った上着を広げながら聡子が言った。

物干場(ぶっかんば)から持ってくればよかったわね」とトヨ子が言った。

 物干場という懐かしい言葉を聞いて、皆、笑った。東風平の教育隊にいた時はまだ洗濯をする余裕があった。歌を歌ったり、キャーキャー騒ぎながら小川で洗濯をした頃が懐かしかった。あれから、まだ三ケ月も経っていないのに、もう一年も前の事のように思い出された。

「ねえ、これを使ったらいいんじゃない」と悦子がリュックの中から細いロープを出した。

「エッコ、いい物、持ってるじゃない」とトヨ子が言って、みんなで家の中にロープを張り、濡れた軍服や防空頭巾、手拭いやリュックの中で濡れてしまった着替えなどを干した。

「ねえ、エッコ、どうしてロープなんか持ってるの」と千恵子は不思議そうな顔して聞いた。木村軍曹から飯盒(はんごう)をもらったのは知ってるけど、ロープをもらったなんて聞いていなかった。

「炊事場の大城さんからもらったのよ」

 初江が聞いていて、「エッコ、大城一等兵とそんな仲だったの」と冷やかした。

「そうじゃないわよ。なに言ってるの。あたしがお手洗いから帰って来たら、炊事場でも荷造りをしていて、余ったから持って行けってくれたのよ。必ず、何かの役に立つからって。あたし、こんな物、もらってもしょうがないと思ったけど、捨てるのも悪いと思って荷物の中に入れたのよ。役に立ってよかったわ」

「大城さんがエッコに気があったのは本当よ」と今度は小百合が言った。「飯上げに行っても、大城さんがエッコを見る目は違ったもの」

「小百合まで何を言ってるの。小百合こそ正善さんに気に入られていたじゃない」

 そう言われてみると大城一等兵が悦子を見る目が違っていたのに千恵子は初めて気づいた。それに、正善上等兵も小百合にはやけに親切だった。

「二人とも、もてたのね」と千恵子が羨ましそうに言うと、

「なに言ってるの」と悦子と小百合が同時に言って千恵子を見た。

「チーコには外間(ほかま)さんがいるじゃないの。新しい患者さんを連れて来て、チーコがいないと、何だ、美里さんはいないのかってガッカリして帰って行くのよ」

「安里先輩に言い付けてやろ」と初江が言った。

「そう言う初江だって、ちゃんといたのよ」とトヨ子が言った。

「えっ、あたしはいないわよ」

「いいえ。上田上等兵は初江に気があったのよ。それに患者さんの太田さんも初江が好きだったのよ」

「太田さんて一中の太田さん? そんな馬鹿な」

「ねえ、上の壕に一中の人がいたの」と千恵子は驚いて聞いた。

「ええ、いたの」と初江はうなづいた。「勿論、安里先輩の事、聞いてみたわ。でも、その人は徴兵検査を済ませて山部隊に入隊したので、安里先輩がどうしているのか全然知らなかったのよ」

「そう」と千恵子はがっかりした。今、どこで何をしているのか知りたかった。もしかしたら、安里先輩たちも南の方に移動になって、どこかでばったり再会できるかもしれないと淡い希望を持った。

 トヨ子だって野田上等兵に気に入られていたのよと初江が言っていた。みんな、いいわねと聡子は羨ましそうに皆の話を聞いていた。聡子はずっと内科病棟にいて、解散になる数日前に第十外科に移って来たので、誰も聡子の事は知らなかった。内科にいた子に聞けば、きっと聡子だって、誰かが思いを寄せていたわよと慰めた。

 八重瀬岳にいた時、井戸端で話をしても、そんな話は出て来なかった。村田伍長や矢野兵長の噂や軍医や看護婦たちの噂ばかりだった。病院が解散になって、もう、みんなと会えないかもしれないと誰もが思っていたのか、身近にいた兵隊たちの事が話題になっていた。

 遠くに落ちる艦砲弾の音と土砂降りの雨の音を聞きながら、看護婦さんたちはどこに行ったんだろうと話していると、突然、老婆と七歳位の女の子が入って来た。老婆は一瞬、驚いて立ち止まったが、若い娘たちばかりなので安心したのか、女の子の手を引いて屋根の下に入って来た。荷物を持っていないので避難民ではなく、この家の住人のようだった。

「まあまあ、びしょ濡れになって」と老婆は気の毒そうに千恵子たちを見ながら言った。

「あのう、このおうちはおばあさんのおうちなんですか」と初江が聞いた。

「ええ、二、三日前にやられてね、こんな有り様になってしまったよ」

「すみません。少し、雨宿りさせて下さい」

「いいさ。こんなうちでよかったら雨宿りして行きなさい。あんたらは女学生さんかい」

 初江が八重瀬岳の野戦病院から来た事を告げると、十九になる娘が救護班に狩り出されて近くにある山部隊の陣地に行って看護婦をやっていると言った。

「最初、(たけ)部隊がやって来て陣地を作って、武部隊が出て行ったら山部隊が来たんだよ。北の方で爆弾が鳴り響いて、敵の飛行機は飛び回っていたけど、先月まではこの部落は無事だった。六月に入ってから、ここにも艦砲やらが落ちて来たんだよ。今度は(たま)部隊というのがやって来て、アバタガマにいた部落の者たちは追い出されてしまった。あそこは大きな自然洞窟で、あそこにいれば絶対に安全だったのに、追い出されて、皆、小さな防空壕に潜るしかなかったさ。あそこを追い出されてから何人もの部落民が亡くなったんだよ。わしの孫も昨日、亡くなってしまった。爺様は足を怪我して寝てるし、嫁も胸を怪我して寝ている。いつになったら、この(いくさ)は終わるんだろうね」

 老婆は方言まじりでそう言って嘆いた。怪我人がいると聞いて、千恵子たちの看護婦としての血が騒いだ。誰もが当然の事のように、治療してあげなければならないと思い、雨の中、老婆の後に従った。

 狭い防空壕の中に爺様と二十五、六歳の嫁と三歳位の女の子が横になっていた。千恵子は何も持っていなかったけど、手術室勤務だったトヨ子と初江は包帯、ガーゼ、脱脂綿を持っていた。消毒液は野戦病院に入る前から各自が救急袋に入れて持ち歩いていたヨーチンがあった。化膿止めはないけど、傷口を綺麗に洗って、ヨーチンで消毒して包帯を交換するだけでも、少しはいいだろうと六人はてきぱきと治療を行なった。

 汚れた包帯を解くと爺様の足にはまだ艦砲の破片が入っていた。みんなで足を押さえ、トヨ子が破片を引っ張り出した。血が流れて来たけど慌てず、足の付け根を(ひも)で縛り、傷口を消毒して脱脂綿で塞ぎ、ガーゼを当てて包帯を巻いた。足の付け根の紐は一時間置きに緩めるように注意を与えてから、嫁の傷口を見た。嫁は右肩と胸をやられていた。可哀想に右の乳房がなくなっていた。艦砲の破片はなかった。肋骨が折れているようだったが、どうしようもなかった。傷口が汚れていたので水を含ませた脱脂綿で拭き、ヨーチンを掛け、傷口に脱脂綿を詰めて包帯を巻いた。熱を出している女の子は薬がないので、どうしようもなかった。何もできなくてすみませんと謝ると、「いいさ。この子は(じき)によくなるさあ」と老婆が言ってくれたので助かった。

 もし、傷口に蛆虫がわいて来たら、破傷風にはならずに治るでしょうと言うと、老婆は驚いて、生きている人間に蛆虫がわくのかと信じられないという顔をして首を振った。お礼だと言って、老婆は黒砂糖の固まりを差し出した。それをお湯に溶かして、女の子に飲ませてあげて下さいと言ったら、まだあるから大丈夫と言って聞かなかった。千恵子たちはお礼を言って、いただく事にした。

 思わぬ収穫に喜んで民家に戻った千恵子たちは、これから怪我をした一般の人たちを治療して回りましょうよと話し合っていた。野戦病院は決して一般の人たちの治療をしなかった。一般の人たちを助けるのもお国のための立派な仕事よと皆、賛成したけど、肝心の薬品や衛生材料が何もなかった。薬品類は八重瀬岳にも、もうあまりなかったので仕方ないにしても、消毒薬と包帯、脱脂綿は欲しかった。

「もっともらってくればよかった」とトヨ子が悔やんだ。

「看護婦さんたちは持ってないかしら」と千恵子は言った。「古堅さんは南に行っても看護婦としてやるべき事をやるって言ってたわ。そうよ、古堅さんが言ってたのは、きっと、この事なのよ。一般の人たちを助けるつもりだったのに違いないわ」

「そういえば、古波蔵さんもそんなような事を言ってたわ」と聡子が言った。

 看護婦さんたちを捜して合流しようと言っていた時、「あっ、朋美」と初江が叫んで飛び出して行った。いつの間にか、雨はやんでいて、朋美と美代子がこっちを見ながら騒いでいた。

 お互いの無事と再会を喜び合った後、朋美と美代子は留美、トミ、鈴代、由美を連れて来た。

 朋美、美代子、留美、トミの四人はトヨ子と初江を加えた六人で八重瀬岳を出たが、途中でトヨ子と初江がいなくなってしまった。鈴代と由美は同じ第五外科の和美と一緒に出たけど、和美は途中ではぐれてしまった。真栄平に着いてから朋美たちと鈴代たちは合流して、雨が降って来たので民家に飛び込んだが、そこは避難民がいっぱいで、やっと軒下に入れてもらった。雨が小降りになって来たので、二人づつ三組に分かれて仲間を捜し回っていたという。

 朋美と美代子が千恵子たちと出会っただけで、他には誰も見つけられなかった。看護婦さんたちもどこにもいなかったらしい。朋美たちが雨宿りをしていた時、真壁から来たという兵隊が、向こうの方が安全だったと言っていたというので、とりあえずは真壁に行こうという事になった。十二人の大所帯となった千恵子たちは荷物をまとめて外へと出た。

 青空が広がって日が出ていた。久し振りに見る太陽は眩しかった。艦砲の音は絶え間なく聞こえて来るが、強い日差しの中を歩くのは気持ちよかった。

 初江がふざけて敬礼しながら、「長嶺伍長殿、全員集合いたしました」とトヨ子に言った。

「御苦労」と鉄カブトをかぶったトヨ子は軽く答礼して、「全員、整列」と号令をかけた。

 みんなは素直に二列縦隊に並び、トヨ子の号令で行進を始めた。行進をしているうちに自然と口から歌が飛び出した。それはまだ二高女の校舎があった頃、校庭で行進した時に歌った『愛国行進曲』だった。






真栄平



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