第一部
1.愛国行進曲
海からの涼しい風が心地よかった。 夕日に染まる 漁船しかなかった那覇港にも三月頃から軍艦が続々と入って来た。上陸した部隊は各地に配置されて、沖縄のいたる所、兵隊さんだらけになって行った。千恵子の通っている県立第二高等女学校も兵舎に使われ、生徒たちは授業そっちのけで飛行場建設や陣地構築の作業に駆り出された。 昭和十九年十月九日、今日も垣花のガジャンビラ(筆架山)高射砲陣地の作業を終えて帰る途中だった。朝から晩まで土と汗にまみれ、皆、疲れ切っていても、そんな事は顔には出さず、元気よく歌を歌っていた。歌う歌と言えば軍歌が多く、一人が歌い出せばすぐに合唱が始まった。 ♪若い血潮の予科練の 千恵子たちが歌いながら北明治橋を歩いて行くと前から五、六人の中学生がやって来た。同じくらいの年頃で四年生か五年生に見えた。 「おい、二高女の晴美だ」と言っている声が聞こえたかと思うと、向こうも大声で『 すれ違う時、一人がお道化た顔して晴美に敬礼したが晴美は見向きもしなかった。 美人でスタイルがよく、しかも、陸上選手として県の代表になった晴美は男子学生の憧れの的だった。ハワイ帰りの二世なので英語もペラペラ、アメリカ映画『オーケストラの少女』に主演していたディアナ・ダービンみたいに歌もうまくて、クラスの人気者だった。 「ねえ、晴美、知ってるの」と澄江が立ち止まって、中学生たちを見送りながら聞いた。 「二中の陸上部さ。名前までは知らないけどね」そう言って晴美が手を振りながら振り返った。 中学生たちは何を勘違いしたのか、ワーワー騒ぎながら走り去って行った。 後ろ姿を眺めながら、「今頃、どこに行くのかしら」と千恵子は誰にともなく聞いた。 「 小枝子が言った事に千恵子は、「あっ、そうか」とうなづいた。奥武山公園には広い運動場があって、お祝い事などの催し物がよく行なわれた。 「あたしたちも明日、奥武山公園に行くのかしら」 「きっと、そうよ、それで朝早くからブラスバンド部は学校に集合なのよ」 小枝子がそう言うと晴美が 「サエ、ブラスバンドなんて言ったら捕まるのよ。敵性語は禁止」晴美は人差し指を立てて口に当てた。 「あっ、ごめん。吹奏楽部だったね」怖い憲兵でもいないかと小枝子は辺りを見回したが、橋の上に人影はなかった。小枝子は安心したように笑って舌を出した。 「ねえ、明日の朝、何時だっけ」と千恵子は澄江に聞いた。話はちゃんと聞いていたのに、はっきり覚えていなかった。 「まったく、チーコはぼうっとしてるんだから。七時集合よ。寝坊しないでよ」 「やだ、大丈夫よ。最近、朝、早いんだから」 「とにかく、久し振りよ。思いっ切り吹きましょ」 「そうね」と言って晴美は『愛国行進曲』を歌い出した。再び合唱が始まった。 ♪見よ東海の空あけて 昭和四年生まれの千恵子たちが物心ついた頃、日本は戦争をしていた。数え三歳の時、満州事変が起こり、八歳の時には国号が『 昭和十六年、県立第二高等女学校に入学すると憧れていた制服は、その年から不格好なへちま 今年の七月、サイパン島が 千恵子たちは陣地構築作業と学校に行って 家に帰るとラジオから流れる軍艦行進曲が聞こえて来た。誰もいないはずなのにおかしいと思いながら 「まったく、脅かさないでよ。一体、何してんのよ」と聞くと、 「今日は飛行場の作業だったんさ。それで、ちょっと用があったんで寄ったんだよ」と言いながら何かガサゴソしていた。 「へえ、一中が今、飛行場に行ってるんだ。あたしたちはガジャンビラよ。近くで作業してたんじゃない」 「チー姉ちゃん、俺の本、どこやったか知らねえか」 「本て何の本よ」千恵子が手を洗いにお勝手の方に行こうとすると、 「お邪魔しております。 「あら」と千恵子は少し赤くなって、慌てて救急袋を肩から下ろして頭を下げた。 康栄が安里先輩を家に連れて来たのは初めてだった。噂は康栄から色々と聞いて知っていたし、野球部の投手として活躍し、背が高くて格好いいので、一中の安里先輩と言えば女学生の間でも有名だった。康栄の話によると安里先輩はブラスバンド部でトランペットを吹いている千恵子を見た事があり、弟に紹介してくれと言っていたという。今度、おうちに連れて来るよと言ってはいたが、まさか、本当に連れて来るなんて思ってもいなかった。 「どうぞ、ごゆっくりして行って下さい」とやっとの思いで千恵子は言った。 「はい」と頭を軽く下げると安里先輩の姿は隠れた。 千恵子はホッとして手を洗いながら、お茶でも出さなくちゃと思った。それにしても、康栄ったら、どうして急に安里先輩を連れて来るのよ。こんな砂だらけに汚れている格好を見られたくなかったのに。髪の毛は大丈夫だったかしらと気になって、救急袋から鏡を取り出して、そっと眺めた。 「チー姉ちゃん、『宮本武蔵』だよ、知らねえか」と康栄が言った。 「あんたの本なんていじってないわよ」 「もしかしたら、爺ちゃんが宮崎に持ってっちゃったんかな」 「まさか。あんたの本なんか持ってかないわよ」 「だって、俺がまだ途中までしか読んでないのに爺ちゃんは面白いって、俺より先を読んでたんだぜ。向こうで続きを読もうって持ってったんかもしれないよ」 「よく捜してごらんなさいよ」 千恵子がカマドに火をつけヤカンを乗せていると、 「あった、あった」と康栄が言って、「チー姉ちゃん、先輩が島崎 小説家になるなんて、まったくの以外だった。汗と泥にまみれて野球をやっている人が机に向かってペンを走らせている姿は想像できなかった。その意外性が、千恵子の興味を引いた。その詩集は姉からもらった物で、まだ全部を読んでいなかったけど、「どうぞ、読んで下さい」と思わず言った。何となく、安里先輩とつながりができるのが嬉しいような気がした。 「ありがとうございます」と安里先輩は固くなって頭を下げると康栄と一緒に出て行った。 「あのう、お茶」と言ったが、 「先輩は寮に入ってるから、のんびりできねえんだよ。また来るから」と康栄はそっけなかった。 二人は庭に置いておいたスコップとツルハシを担ぐと走り去って行った。 後ろ姿を見送りながら、お茶ぐらい飲んで行けばいいのに、と康栄を恨んだ。まったく、気が利かないんだから、もう少し、安里先輩と話がしたかったのに。それにしても安里先輩はかっこいいね。安里先輩に会った事を晴美や澄江に言ったらどんな顔をするだろう。千恵子は一人でクスクス笑っていた。
たった一人で夕食の支度をしているのは心細く、こんな時は疎開した母親や祖父母、妹や弟を思い出してしまう。母と祖母が夕食の支度をしている時、祖父は決まって縁側で 祖父母も母も疎開なんかしたくなかったけど、父が県庁職員だったため、皆の手本として疎開しなければならなかった。宮崎県に母の妹が嫁いでいて、手頃な家を見つけたから安心して来てくれと言われて腰を上げたのだった。宮崎の叔父は職業軍人で食料の手配もできると言う。疎開した者たちの苦労話も色々と聞こえて来るが、その点は安心だった。早く戦争が終わって、みんなが帰って来るのを願うしかなかった。 日が暮れる頃、姉の奈津子が帰って来た。父は遅くなると言っていたので、二人で夕食を食べた。奈津子は県立病院の看護婦養成所の二年生だった。 「今頃、お母さんたちも、みんなでご飯食べてるのかしら」と千恵子が言うと、 「そうね」と奈津子は上の空で、黙々とご飯を食べていた。 「ねえ、病院で何かあったの」 「えっ」と奈津子は 「何もないけど‥‥‥ねえ、あんたはこれからどうするつもりなの。もう来年、卒業なんでしょ。あんた、 「うん、わかってる。あたしも色々考えたんだけど、お国のためになるのはやっぱり看護婦じゃないかと思ったのよ」 「えっ、あんたも看護婦になるの。あんたには無理よ。思ってるより、ずっと大変なんだから」 「そうかもしれないけど‥‥‥ねえ、お姉ちゃん、あたしのお友達でケーコちゃん、知ってるでしょ」 「ええ、頭のいい子でしょ。あの子も看護婦になるの」 「そうじゃないのよ。ケーコちゃん、東京女子医専を受けてお医者さんになるんですって」 「へえ、女医さんになるの。あの子ならなれるわよ、きっと」 「あたしはそんなの無理だけど、看護婦さんならなれると思うわ」 「まあ、頑張ってね」 「何よ、人事みたいに」 「だって、あんたの言う事はコロコロ変わるんだもの。最初はお爺ちゃんや 「昨日、浩おばちゃんから聞いたわよ。浩おばちゃんも近いうちに南風原の方に移るかもしれないって言ってたわ」 「そうだったの。あたし、浩おばちゃんに会いたかったな。相談したい事があったのに」 「なに言ってるのよ。活動(映画)を見に行ってたくせに。あたしも行きたかった」 「女学生は活動なんて見ちゃ駄目なのよ。ねえ、浩おばちゃん、今度の日曜も来るって言ってた」 千恵子は首を振った。 「南風原の方に行ったら、なかなか来られないかもしれないって言ってたわよ」 「そう‥‥‥」 二人が浩おばちゃんと呼んでいる浩子は父親の一番下の妹で看護婦だった。県立病院に勤めていた頃は、この家から通っていたが、六月に陸軍病院に志願してから家を出て下泉町の宿舎に入っていた。陸軍病院は本部と内科、伝染病科を 千恵子たちの父親は長男で、下に 「もしかしたら、お姉ちゃんも陸軍病院に志願するつもりなの」と千恵子は何げなく聞いた。姉も出て行ってしまったら、父と二人だけになってしまう。そんなの寂し過ぎて、いやだった。 図星を指されて奈津子はドキッとして、千恵子を見つめ、「まだ、お父さんには内緒よ」と小声で行った。「あたし、卒業したら志願しようと思ってるのよ」 「ふーん。心の色は赤十字ってわけね。素敵じゃない」 「なに言ってるの。少女雑誌の従軍看護婦とは違うんだから。でもね、お父さんは反対するかもしれないわ」 「そうね。浩おばちゃんも反対されてたもんね。でもあの時、猛反対していたお爺ちゃんはいないし大丈夫じゃないの」 「でもね」と言って、奈津子は難しいというように首を振った。 「浩おばちゃんが言ってたけど、戦争が始まると爆弾にやられて手足のない人や顔が半分なくなった人とかが運ばれて来るんだってさ」千恵子は姉を脅かしてみた。 「そんな事知ってるわよ」と奈津子の顔色はまったく変わらなかった。 「もう血だらけで、傷口からピュッピュッて血が飛び出すんだって、恐ろしいわね。あたし、浩おばちゃんの話を聞いて背筋が寒くなっちゃった」 「戦争っていうのは恐ろしいものなのよ。戦争が始まったらそんな事言ってられないのよ」 「だって、そんな恐ろしい事が起こるはずないじゃない」 「まあね。アッツ島やサイパン島では起こったらしいけど、沖縄は大丈夫よ。海軍さんが上陸の前に敵をやっつけちゃうわ」 「そうよ、勿論よ」と千恵子は海軍式の敬礼をした。 父親が帰って来たのは九時過ぎだった。明日から陸海軍合同の 辻の遊郭と聞いて、千恵子は顔をしかめた。父親も仕事の付き合いで何度か、遊郭に行っているのを祖父から聞いて知っていた。男というものは誰でもああいう所が好きなんじゃと祖父は笑っていたが、父親がそんな所に行くのはいやだった。遊郭だけでなく、兵隊が増えてから街中に 「お父さんはそんなとこに行かなかったんでしょうね」千恵子は少し膨れて父親の顔を見つめながら聞いた。 「何を言う。わしがそんなお偉いさんたちと同席できるわけがなかろう。司令官殿や参謀長殿もおられるんだぞ」 父が隠し事をしているようには見えなかった。今日は遊郭には行かなかったらしい。 「司令官殿って、牛島 「そうだよ」 「へえ、牛島閣下もそういう所に行くんだ」 牛島閣下が沖縄に来られた時、千恵子たちブラスバンド部は歓迎の式典に出たので知っていた。将軍というよりは何となく親しみ深く、校長先生という感じだった。 「閣下は酒は飲まれないんだが、司令官殿となれば付き合いで行かないわけには行くまい。 十時になると停電してしまった。最近になって停電が多くなり、灯いていても薄暗かった。明日も忙しくなりそうだと皆、
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