沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲





第三部




13.摩文仁




 戦車に追われて逃げた千恵子たちは、その夜、岩陰に身を隠した。そこは最悪の隠れ場所だった。深さが三メートル位の岩の割れ目で、ガジュマルの気根(きこん)が伸びていて、それに伝わって下に降りた。全員が隠れる事はできたけど座る事はできず、一晩中、立っていなければならなかった。

 照明弾は時々、撃ち上がっていたが、艦砲弾は落ちなかった。波が岩に当たって砕ける音がうるさい位によく聞こえた。あんなにも大勢いた避難民は皆、どこかに消えてしまって、千恵子たちだけが残されてしまったような不安を感じながら長い夜を過ごした。こんな所にいるよりも上に戻って、アダンの下に隠れた方がいいと思ったが、時々、戦車が動き回っている音や銃声が聞こえて来るので、外には出られなかった。

 夜が明けると同時に、気根を伝わって一人づつ外に出て行った。最後に千恵子が出たら、上には誰もいなかった。みんな、どこに行ったんだろうと不安になって見渡すと、アダンの陰にトヨ子を先頭に五人がしゃがみ込んでいた。千恵子はホッとして、みんなの側に走った。

「戦車がいるんだって」と悦子が言った。

「えっ」と千恵子は前の方を見た。

 緑に覆われていた山はすっかりハゲ山になっていて、あちこちから煙が立ち昇っていた。焼け野原に敵の戦車が、まるで亀のようにあちこちにいた。ここからは見えないが、近くにもいるのか、戦車が動いているような不気味な音が聞こえて来た。

「初江たちはどうしたの」と千恵子は悦子に聞いた。

「トヨ子が出た時、誰もいなくて、足跡を追って行ったら、目の前に戦車が来て、慌てて引き返したらしいわよ」

「初江たちはやられたの」

「違うわ」とトヨ子が言った。「銃声は聞いてないし、悲鳴もしなかった。戦車が来る前に下に降りて行ったのよ」

「きっと、下で待ってるわよ」と聡子が言った。

 千恵子が何げなく後ろを振り返ったら、ちょっと離れた所に黒い煙が上がっているのが見えた。

「ねえ、あれ、見て」と悦子に言った。

「誰かが、ご飯を炊いてるのかしら」と悦子はとぼけた事を言った。

「馬鹿言わないでよ。ご飯を炊くぐらいであんなに煙は出ないわよ」

 みんなで振り返って見ていると、火を吹きながらアダンの林を焼いている戦車が見えて来た。

「駄目よ、早く行かなくちゃ」と聡子が騒いだ。

 後ろからも戦車が迫って来ていた。前に進むしかなかった。

「行くわよ」とトヨ子が行って、千恵子たちは身を低くして前進した。

 トヨ子が見たという戦車は山の方に向かっていた。山の方では戦闘が始まったのか、続けざまに銃声が聞こえて来た。あの山の中に牛島閣下のおられる司令部があるに違いないと千恵子は思った。

 トヨ子を先頭に千恵子たちは海岸へと続く坂道を降りて行った。海上には敵の軍艦が静かに並んでいた。こちらを向いている大砲が一斉に火を吹いたら、この辺りに(ひそ)んでいる避難民たちは一巻の終わりだった。足元に気をつけながら降りて行くと突然、目の前に兵隊が現れた。

 兵隊は手に持った手榴弾をかざしながら恐ろしい顔をして、

「お前たちはスパイか」と聞いて来た。

「違います。二高女の生徒です」とトヨ子が言った。

 兵隊は千恵子たちの制服姿を眺めてから、うなづくと「こっちへ来い」と岩陰の中に誘った。

 岩陰の中は以外に広く、兵隊が三人と避難民が五人隠れていた。

「この先の浜辺に敵が上陸した。隠れた方がいい」兵隊はそう言って奥の方を示し、入口の岩陰に隠れて外の様子を(うかが)った。

 この岩陰は奥の方にも出入口があって、向こう側が見え、そこにも兵隊が一人、見張りに立っていた。もう一人の兵隊は怪我をしているらしく、岩にもたれて座っていた。

 千恵子たちは足を忍ばせて奥の方に行き、向こう側を眺めた。岩がいくつも連なっている向こうに砂浜が見え、波打ち際に敵の小型艇が三隻浮かんでいた。

「三十人位の敵があの船から降りて来て、何かを運びながら、どこかに消えた」と見張りの兵隊が言った。

 小型艇には数人の敵兵が乗っているらしく、砂浜の方に機関銃を向けていた。砂浜には敵兵の姿は見えなかった。あちこちに死体が転がっていて、岩陰には避難民たちが息を殺して隠れていた。

「あたしたちの仲間が五人、先に降りて来たんですけど見ませんでしたか」とトヨ子が聞いた。

「あの船が来る前に向こうに行ったのがそうかもしれんな。その辺の岩陰に隠れてるんだろう」

 初江たちと合流したかったが、敵の船がいる限り、ここから動くわけにはいかなかった。ずっと立ちっぱなしだった昨夜の疲れが出て来て、千恵子たちは座り込んだ。

「君たちはどこから逃げて来たんだ」と見張りの兵隊が聞いた。

「八重瀬岳の野戦病院からです。そこで看護婦をしてたんです」と兵隊の側にいた聡子が答えた。

「そうか。女学生が看護婦をしているとは聞いていたが、君たちもそうだったのか。すまんが、分隊長殿の足を見てくれないか」

 三人は(たま)部隊の工兵隊で、大渡(おおど)の陣地壕から斬り込みに出たが小隊が全滅してしまい、生き残った三人で辛うじて敵陣から撤退した。昨夜も国頭突破を試みたが、敵に見つかって、分隊長が足を撃たれてしまったという。千恵子たちは残り少ない衛生材料で、斎藤伍長と名乗った分隊長の左足の貫通銃創の治療をした。避難民たちの中にも怪我をしている人が三人いたので、それも治療した。

 避難民たちは首里から逃げて来た人たちだった。四十代の女の人が二人、三十代の女の人が一人、二十代の女の人が一人と小学生低学年の女の子が一人だった。昨日の夕方、上から降りて来て、ここで夜を明かした。昨夜は大勢の避難民がここにいたが、朝早く、皆、出て行った。一緒に出て行きたかったけど、小学生の女の子が熱を出して歩けなかったので、もう少し休んでいようとここに残った。親戚や近所の人たちと一緒に首里を出た時は十四人もいたのに、年寄りや幼い子供たちは死んでしまって、今は五人になってしまったという。九人も亡くなったと聞いても千恵子たちは少しも驚かなかった。それよりも、首里からこんな南の果てまで無事に来られた事に驚いていた。家も焼けてしまったし、これからどうしたらいいのかわからない。いっその事、死んでしまいたいと言っていた。

 千恵子は首里に一人で残されたおばあちゃんの事を聞いてみた。おばあちゃんの事は知っていた。でも、どこに行ったのかはわからないという。佳代の両親の事も聞いてみたがわからなかった。

「他の者はいいが、君だけどうして軍服を着てるんだ」と斎藤伍長がトヨ子に聞いた。

「野戦病院でなくしてしまったんです」

「軍服を着てると危険だぞ。軍人と間違われて、有無を言わさず撃ち殺される。着替えた方がいい」

「大丈夫ですよ」とトヨ子は言ったが、首里から来た人たちが、「よかったら、これを着て下さい」と芭蕉布(ばしょうふ)の着物を差し出した。「もう、持っていても仕方ないですから」

 千恵子たちも着替えた方がいいと勧めたので、トヨ子も着替える事にした。今までかぶっていた鉄カブトも捨て、軍靴(ぐんか)も脱いで素足になった。

「素足じゃ危険よ」と悦子が心配した。「怪我したら破傷風になっちゃうわ」

「大丈夫よ。誰かから回収するわ」

「あたしも回収した方がいいかもしれない」とトミが言った。トミの地下足袋はボロボロになっていて、親指が顔を出していた。

「防空頭巾はどうしたの」と和江がトヨ子に聞いた。

「糸洲の壕に置いて来ちゃったのよ。もう用はないと思って」

「危ないわよ」

「大丈夫よ。怪我して苦しむより、一思いに頭をやられて死んだ方がましよ」

「おい、静かにしろ」と浜辺を見張っていた兵隊が言った。「敵が戻って来たぞ」

 千恵子たちは足音を忍ばせて、浜辺が見える方に移動して外を見た。

 アメリカ兵がぞろぞろと浜辺に集まっていた。小銃を構えた大きなアメリカ兵が回りを気にしながら海の中に入って行った。白い顔や赤い顔や黒い顔まであって、まさしく鬼のようだった。千恵子は恐怖で膝がガクガク震えた。突然、アメリカ兵の自動小銃がダダダダダと音を立てた。岩陰に隠れていた誰かが倒れたようだった。アメリカ兵が怒鳴った。何を言っているのか、さっぱりわからなかった。戻って来た十人位の敵兵が船に乗ると、三隻の小型艇は沖の軍艦の方へ去って行った。

 千恵子はホッと胸を撫で下ろし、足の力が抜けてしまったかのように、その場に座り込んだ。

「まさしく、鬼畜米英(きちくべいえい)だわ」と和江が泣きそうな顔して言った。

「恐ろしいわねえ」と悦子も腰が抜けたように座り込んでいた。

「捕まったら絶対に殺されるわ」とトヨ子が言った。トヨ子も真っ青な顔をしていた。

「殺されるだけじゃすまん」と見張りの兵隊が言った。「君たち女学生は裸にむかれて、おもちゃにされるぞ」

「顔に泥でも塗って汚しておいた方がいいぞ」と斎藤伍長も言った。

 敵兵の姿が消えたので、隠れていた避難民たちが岩陰から出て来て、東の方へと向かって行った。千恵子たちも初江たちを捜して合流しようと荷物を背負った。首里から来た人たちも一緒に出て行こうと荷物をまとめていた。

「もう少し待て」と見張りの兵隊が言った。「戻って来たのは十一人だけだ。まだ二十人位の敵がどこかに潜んでいる」

 そんな事は知らずに、避難民たちはぞろぞろと東の方へと歩いていた。岩陰から初江たちの姿を捜したが見つからなかった。

「船は行っちまったし、ここには戻って来ないのかもしれんな」と兵隊は言った。

「ちょっと待って」と海の方を見ていたトミが言った。「また、敵の船が近づいて来るわ」

 船が近づいて来るに従って、音楽が流れて来た。千恵子たちが聞いた事もない音楽だった。やがて、音楽が消えて日本語の放送が始まった。

「ミンナデテキテ、ナミウチギワヲ、ミナトガワニムカッテアルケ。ケッシテウタナイカラアンシンシテアルケ」

 浜辺に出ていた避難民たちは慌てて岩陰に隠れて、誰もいなくなった。千恵子たちも外に出るのを諦め、岩陰に隠れた。

「まったく、いい加減な事を言いやがる」と見張りの兵隊が言った。「どこかに集めて、皆殺しにするつもりだ」

 敵は同じような事を何度も放送していた。

「オヨゲルモノハ、ココマデオヨイデコイ」とも言っていた。

「ヒルマハアルイテモイイガ、ヨルハアルクナ。ヨルアルクモノハ、ヨウシャナクハッポウスル」とも言っていた。

 呼びかけと呼びかけの間に音楽が流れる事もあった。心が弾むような明るい音楽で、まるで敵は遊んでいるような感じだった。トランペットの音も聞こえて来た。千恵子は懐かしそうに聞いていた。そういえば、アメリカの音楽が禁止される前、晴美の家で似たような音楽を聞いた事があったのを思い出した。ハワイ帰りの晴美はアメリカのレコードをいっぱい持っていた。いつの間にか、あのレコードはなくなっていた。憲兵に見つかると捕まってしまうので、みんな捨ててしまったのだろうか。

「馬鹿な奴らだ」と見張りの兵隊が言った。「敵の口車に乗せられて出て行く奴らがいる」

 浜辺の方を見ると避難民たちが三々五々、岩陰から出て来て、砂浜を東の方へと歩いていた。放送の通り、敵は撃って来なかった。敵が撃たない事がわかると避難民たちは次々と出て行った。首里から来た人たちはそれを見ながら、「あたしたちも行きましょう」と相談していた。

「やめとけ。殺されるぞ」と斎藤伍長が言ったが、

「もう疲れました。このまま逃げ切れるとは思えません。いっその事、みんなと一緒に殺された方がいいかもしれません」と小学生の女の子の母親は言った。

「早く、子供たちの待つあの世に行きたい」と二十代の女の人は言った。

 千恵子たちも行かない方がいい、まだ諦めては駄目よ、きっと日本軍の反撃があるはずよと説得したが、首里の人たちは小学生の女の子をおぶって出て行ってしまった。千恵子たちは後ろ姿を見送った。首里の人たちは避難民たちの列に混じって見えなくなった。

「ねえ、敵は撃って来ないわ。今のうちに初江たちと合流しましょうよ」とトミが言った。

「そうね。今なら大丈夫かもしれない」

 トヨ子が斎藤伍長に声を掛けると、もう少し様子を見ていると言って動かなかった。移動している避難民たちの中に兵隊の姿はなく、兵隊は撃たれるかもしれないと警戒していた。

 千恵子たちは斎藤伍長たちと別れ、岩陰から出ると初江たちを捜した。岩陰を覗きながら東へ向かうと砂浜に出た。砂浜にはあちこちに艦砲弾の穴があいていて、驚く程の死体が転がっていた。二、三日は経っているとみえて、皆、ブクブクに膨れていた。どこの岩陰にも兵隊や避難民たちが、まだ何人も隠れていた。敵の放送に導かれて出て行ったのはほんの一部の避難民たちだったようだ。

 死体だらけの砂浜を抜けると岩場に出た。千恵子たちは手分けをして岩陰を覗いて回った。手榴弾で自決したのか、血だらけになっている岩陰があった。兵隊ではなく家族連れの避難民で、小さな子供の頭は吹き飛び、バラバラになった手足が転がり、内蔵の飛び出した胴体が血まみれになって重なっていた。千恵子たちは目を背けてその場を去った。

 別の岩陰を覗いていたトヨ子がスパイに間違えられた。もう少しで、血走った兵隊に斬られる所だったが、偶然にも、その兵隊は八重瀬岳の野戦病院の患者さんで、第六外科病棟に入院していて、千恵子と悦子の世話になっていた。千恵子と悦子もその兵隊を覚えていたので助かった。

 スパイに間違えられて殺されたらかなわないので、初江たちを捜すのは諦めなければならなかった。避難民たちと一緒に東へ行ってしまったのだろうか。とうとう、別れ別れになってしまった。

 千恵子たちは東へ向かう避難民たちと一緒に東へと向かった。無残な死体があちこちにあって、足元を気をつけなければ、ふやけた死体を踏み付けてしまいそうだった。波打ち際にも死体はいくつも浮いていた。素足のトヨ子は「すみません」と両手を合わせて、死体から地下足袋を拝借した。

「ちょっとごめん」と悦子が言った。「おしっこ」と言って、岩陰の方に向かった。

「あたしも」と和江も後を追った。

 千恵子たちは避難民たちの列から離れて待った。すぐ側にある大きな岩の下に毛布を掛けられた死体が横になっていた。地下足袋をはいた足だけが出ていて、何げなく見ていた千恵子は悲鳴を上げた。

「チーコ、どうしたのよ」と地下足袋をはいていたトヨ子が顔を上げた。

 千恵子は死体の地下足袋を指さした。地下足袋に『平良(たいら)小百合』と名前が書いてあった。トヨ子も悲鳴を上げた。トミと聡子も悲鳴を上げた。

「そんな馬鹿な」と聡子が首を振った。

 糸洲の野戦病院壕にいる小百合がこんな所で死んでいるはずがなかった。あの重傷でこんな所まで来られるはずはない。小百合の幽霊なのかとゾッとして四人はその場を離れた。

「ねえ、ちょっと来て」と和江が呼んでいた。

 行ってみると誰もいない岩陰の前に和江と悦子が立っていた。そこはちょっとした自然壕のようになっていて、十人位が楽に隠れられる広さがあった。火を燃やした跡やゴミが散らかっていて、ついさっきまで誰かが隠れていたようだった。その中に入って、今後の相談をした。

 このまま避難民たちと一緒に行ったら捕虜になってしまう。捕虜になる気はまったくなかった。何としても国頭突破をしなければならない。敵の船かいなくなったら行動に移す事に決めて、千恵子たちは横になった。昨夜、立ちっぱなしだったので皆、疲れていた。

「ねえ、誰かを見張りに立てた方がいいんじゃないの」とトヨ子が言った。

 その通りだった。ここからは海の方が見えなかった。突然、敵に囲まれたら逃げられなくなってしまう。一時間交替で見張りに立つ事に決め、トヨ子が最初に立つ事になった。千恵子は腕時計をトヨ子に渡して、安心して横になった。

 おなかが減っていたけど、もうお米はなかった。乾パンも残り少なかった。千恵子は我慢した。さっきの小百合の地下足袋が思い出された。姉の幽霊を見たように、あれは小百合の幽霊なのだろうか。小百合のいる自然壕も馬乗り攻撃を受けて小百合も死んでしまったのだろうか。いいえ、そんな事は信じたくない。千恵子は必死に否定しながら眠りに落ちて行った。アメリカの音楽が子守歌のように聞こえていた。

 千恵子は悦子に起こされて、見張りに立った。捕虜になる決心をした人たちは皆、出て行ってしまったのか、岩場を歩いている人影はなかった。敵の船は海上に止まったまま、何だかわからない放送をしていた。

「あの兵隊さん、味方に撃たれたのよ」と悦子が波打ち際に浮いている死体を指さして言った。「手を上げながら海に近づいて行って、泳ごうとした所を後ろから撃たれたのよ。あの辺りが血で真っ赤に染まったの。恐ろしかったわ」

 頑張ってねと腕時計を渡すと、悦子はあくびをしながら穴の中に入って行った。時計を見ると十一時半だった。

 千恵子は岩陰に隠れながら回りを見回した。隠れている人たちも敵が攻撃して来ないので、何となく、のんびりしているように思えた。

 煙を上げながら堂々と自炊している兵隊もいた。羨ましそうに眺めていると、その兵隊は信じられない事をやっていた。何と、鉄砲の木の部分を砕いて薪にしていたのだった。鉄砲は兵隊の命とも言える大切な物のはずなのに、それを砕いて炊事の薪にするなんて情けなかった。こんな事で、戦争に勝てるのだろうか。もしかしたら、このまま負けてしまうのではないかと不安がよぎった。でも、すぐに、そんな不安は追い払った。日本が負けるはずはない。きっと、総攻撃があるはずだ。たとえ、沖縄の地が穴だらけになってしまっても、戦争には必ず勝つんだと自分に言い聞かせた。

 わけのわからない放送の合間に、「港川に行け」と何回か放送していた。その放送を聞くと疲れ切った顔付きの三人の避難民が岩陰から出て来て、足を引きずりながら東へと歩いて行った。それに誘われるように、二人、三人と岩陰から出て来て、後に従い、十数人が出て行った。また、わけのわからない放送に切り替わった。

 千恵子は海に浮かぶ敵の船をぼんやりと眺めていた。いい天気だった。

 初江、朋美、鈴代、由美、美代子の五人はどこに行っちゃったんだろ。捕虜になるなんて考えられないから先の方を歩いているに違いない。どこかで会えればいいのに‥‥‥もしかしたら、国吉に行った晴美たちも馬乗り攻撃に会う前に逃げ出して、この辺りにいるかもしれない。佳代や澄江も近くにいるのかもしれない。どこかで偶然に再会して喜び会うのを夢見た。

 何げなく聞いていた敵の放送から、聞き覚えのある英単語が耳について来た。アウトとかストライクとかバッターとかピッチャーとか聞こえた。もしかしたら、敵は野球放送を聞いているのかと思って、よく聞いてみると、いつか、ラジオで聞いた野球放送に似ていた。そういえば野球はアメリカのスポーツだった。敵兵はアメリカの本土でやっている野球を聞いているのだろうか。随分と余裕があるものだと呆れた。野球放送を聞きながら、安里先輩の事を思った。安里先輩もこの近くにいるのかもしれなかった。突然、出会ったらどうしよう。シラミだらけの髪のまま会いたくはなかった。(あか)だらけの体も綺麗に洗いたかった。たとえ、海水でもいいから髪と体を洗いたかった。

 投降の放送が始まった。また、何人かが岩陰から出て行った。鉄砲を壊していた兵隊が軍服を脱いで民間人の着物を着て出て行った。軍靴(ぐんか)だけは履いたままなのがおかしかった。ああいう情けない兵隊もいたのかと悲しく思えた。

 十二時半になって、千恵子はトミを起こして交替した。眠る前におしっこがしたくなった。どこかの岩陰に隠れてしようと思ったけど、どこにも人の目があった。悦子と和江はどこでしたのだろう。仕方ないので、みんなが寝ている自然壕に戻って、飯盒を尿器代わりにしてその中にした。千恵子が尿を捨てに出て来たら、トミが何してるのと聞いた。千恵子が説明すると、あたしも我慢してたのと言って、千恵子の飯盒を借りて済ませた。その飯盒は尿器となり、その後、みんなの役に立った。

 敵の船は野球放送が終わった後、投降を呼びかけながら別の所に移動して行った。海岸線近くを行ったり来たりしながら放送を続け、日暮れ近くになって、やっと引き上げて行った。

「クラクナッタラ、ウゴクナ。ウゴイタモノハウチコロス」と最後に何度も言っていた。

 どうしようかと千恵子たちは相談した。敵の船がいなくなったら行動に移すつもりだったが、敵の警告が怖かった。浜辺にある無数の死体は暗くなってから動いて殺されたに違いない。迷っていると、突然、機銃掃射の音がした。岩陰から海の方を見ると避難民が四人、波打ち際の近くに倒れていた。「助けてくれ」と悲鳴を上げている者もいた。いつの間にか、海上に敵の船がいた。船はゆっくりと東の方へと移動していた。

「危険だわ」とトヨ子が言った。「夜は危険よ。昼間、移動した方がいいわ。避難民たちと一緒に行って、敵の姿を見たら隠れて、別の方に行けばいいのよ」

 トヨ子の意見に皆が賛成した。ここは居心地もいいし、夜を明かすには最適な場所だった。わずかばかりの乾パンと水を飲んで夕食とし、明日のために横になった。






摩文仁の丘



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