沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲




創作ノート




「沖縄戦研究T(沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室編 沖縄県教育委員会刊)」より




  • 昭和12年(1937)7月7日、日華事変勃発。世間は慌ただしくなり『非常時』という言葉が使われた。入営兵の他に応召兵が発ち始め、港まで見送りに行く、街では『千人針』が作られた。慰問文や慰問袋を学級ごとに作って戦地の将兵に送った。在満支将兵の武運長久祈願の神社参拝もあったが、戦死者や戦病死者の遺骨が帰還し始め、記念運動場で市葬が行われた。
  • 昭和12年、教練が重視され、予備役少尉が嘱託教師となり、現役少佐が配属将校として指導した。年2回の査閲は現役大佐の連隊区司令官が来校し、直々に行った。
  • 昭和13年(1938)、愛国行進デーが設けられ、『愛国行進曲』や軍歌を歌って市内を行進し、戦意昂揚に努めた。奉仕作業が増え、夏休みも少なくなった。
  • 昭和15年(1940)、男は国民服、女はもんぺ姿になり、先生も丸刈りになった。
  • 昭和16年(1941)、生徒昇降口の掲示板には戦場の状況やニュースが掲げられ、神社暁天参拝、軍歌行進、奉仕作業と忙しい毎日だったが、映画見学もあり、映画はまづニュースが上映され、すべてが戦意昂揚、戦争遂行協力に結集された。
  • 昭和16年、教練は盛んになり、雑嚢と水筒を持って金武村までの一泊行軍、与儀の廠舎での軍事講習、実弾射撃などがあり、全県中等学校連合野外演習には4、5年生が参加して夜間攻撃、払暁戦とくたくたになるまで演習した。
  • 戦死者が増え、夫を失った『誉れの家』、息子を失った『軍国の母』、父を失った『靖国の遺児』が次々に生まれた。
  • 毎月8日の『大詔奉戴日』は各学校、各職場での詔書奉読式、必勝祈願、各戸の国旗掲揚、職域奉公など実施した。『海ゆかば』の斉唱。
  • 昭和16年2月、文部省は明治以来使い慣れたドレミ音階を廃止して、ハニホ音名唱法を実施。レコード会社の社名も敵性語廃止でポリドールは大東亜、コロムビアは日蓄、キングは富士音盤と改称。
  • 昭和17年(1942)の大晦日は除夜の鐘も鳴らなかった。鐘は回収されてしまった。
  • 毎年、奥武山公園運動場で県下中等学校・青年陸上競技大会が催され、『手榴弾突撃』『土嚢運搬』等の種目が加わった。中でも武装して銃剣を持ち、障害物を飛び越えて突撃するという種目がハイライトだった。県の予選を勝ち抜いて明治神宮外苑での全国大会に沖縄三中チームが日本一に輝いた。



ひめゆり学徒の生活(寮生を中心に)


 6:008:00    起床、清掃、点呼、朝食、登校。

        大麻礼拝‥‥‥毎朝食事前に大麻礼拝(天照大神の祖先にお初やお水を供えて拝む)

        食事の前毎朝朗唱

                あさみどり澄みわたる大空の広きをおのが心ともがな(明治天皇御製)

        献立例‥‥‥芋ご飯、味噌汁(太平洋汁といった)、たくあん(2個)または梅干し(1個)。

    食事訓『箸とらば天地御世の御めぐみ君と親との御恩あじわえ』

 8:0015:00   朝礼、授業。

        宮城遥拝‥‥‥皇居に向かって最敬礼。

        @神社の清掃及び必勝祈願。

        A義勇託児所での奉仕(夏季休暇中)。

        B朝礼での講話は戦争に関する事が多く臨時に時局講演も行われた。

        C音楽 三国同盟(日本、ドイツ、イタリア)以外の外国の歌を歌う事を禁じた。
     国体賛美、志気高揚のため軍歌を歌う事が多くなった。『海ゆかば』『勝利の日まで』など。

 15:0016:30  部活動。

        学校生活の中で、防空訓練。陣地構築(19年6月以降)、看護教育(19年9月以降)。

 16:3018:00  下校

        分団毎に当下校(バス乗車は禁止されていた)。
    門限は18:00、点呼は厳しく行われ、遅刻した者は一定期間外出禁止。
    寮生の外出は許可制。日曜日の外出は半舷上陸(半数は残る)。不意打ちの私物検査もあった。

 18:0019:30  点呼、夕食、自由時間。

        下校後の外出、18:00以降は禁止。教護連盟が組織され厳しくチェックされた。

 19:3021:30  勉強の時間。

        私語は全く許されない。
    時間が足りなくて消灯後、廊下お手洗い押入れの中などで舎監の目を盗んで勉強する者もいた。

 21:3022:00  夕礼、点呼、消灯。

        点呼は1日3回厳しく行われた。宮城遥拝。明治天皇御製。

 22:006:00   睡眠時間。



  • 昭和18年(1943)2月、情報局は米英音楽追放の方針を発表し、ジャズなど約1000曲の演奏を禁じる。(『ダイナ』『アラビアの唄』『私の青空』『スザンナ』『オールド・ブラック・ジョー』『峠の我が家』『月光価千金』『南京豆売』『ブルー・ハワイ』『アロハ・オエ』など)
  • 昭和18年2月、日本軍のガダルカナル島からの撤退で、米軍の反攻が強まると『進め!一億火の玉だ』が新たな戦意昂揚の標語として登場。さらに陸軍記念日の3月10日には『撃ちてし止まん』が決戦標語として使われる。
  • 沖縄一中出身の大舛松市陸軍大尉はガダルカナルで壮烈な戦死を遂げ、沖縄の英雄となり大舛大尉に続けと『大舛大尉の歌』も歌われた。
  • 昭和18年6月、『学徒戦時動員体制確立要綱』閣議決定。食糧増産、国防施設、緊急物資増産、輸送力増強の重点四事業に中学校3年生以上の学徒を学校単位で勤労動員に送り込む。動員期間は年間30日〜60日に延長。

   これ以後、生徒は作業の合間をぬってしか勉学ができないようになる。

  • 昭和1812月9日、全児童生徒を動員して金属類の回収に当たる。鍋や釘、缶詰の空き缶、鍬、鎌、鋸の使い古しなど。後になると蚊帳についた真鍮の耳や五十銭銀貨なども各家庭から供出するようになる。
  • 昭和19年(1944)1月、『勤労即教育』として『学徒勤労動員を強力に実施し戦力増強に挺身せしむる』その期間は一年につき概ね4ケ月を標準とする。
  • 昭和19年2月、『決戦非常措置要綱』閣議決定。『国民即戦士』の覚悟で学徒動員態勢の徹底。『中学校程度以上の学生生徒』は『今後一年、常時これを勤労その他の非常任務に出勤』せしめ、同時に学校校舎は必要に応じ て軍需工場化し、軍用、非常倉庫用、非常病院用、避難住宅用、その他の緊要の用途に転用するとした。
  • 昭和19年8月、『学徒勤労令』『女子挺身勤労令』の公布。学徒勤労は学校長を隊長とする学徒報国隊と称し、引き続き勤労期間は一年以内とする。すでに4月から中学校高学年以上の通年動員が実施され、7月には低学年、国民学校高等科児童まで動員対象が拡大され、中学校3年以上の男女学生生徒の深夜労働が実施されていた。この勅令はこれらを法制化した。





「沖縄戦研究U(沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室編 沖縄県教育委員会刊)」より




  • 大本営(最高戦争指導部)はミッドウェー海戦で失った航空母艦の損耗の穴埋めに島嶼群に飛行場を設定し航空作戦を展開する『浮沈空母』構想を練る。
  • 沖縄本島を中心とした南西諸島はこれまで軍事的には全くの空白地帯だった。本土各県とは事なる歴史を持つ沖縄は郷土部隊を持たない唯一の県で明治以来長く無防備の状態で放置されていた。わずかに徴兵事務を取り扱う連隊区司令部だけは常駐していたが『沖縄の戦備は連隊区司令官の軍馬一頭』と揶揄される状態が続いていた。
  • 昭和16年8月から10月にかけて中城湾(沖縄本島)と船浮湾(西表島)に陸軍要塞が建設され、小規模な砲兵部隊が駐屯するようになったのが沖縄諸島の軍備の始まりだった。ただし、両要塞は奄美大島要塞と共に南方と日本本土を往来する艦船の泊地を守備するのが主任務であって沖縄全域の防衛問題とは別の存在だった。
  • 昭和18年に入ると沖縄近海での米潜水艦の出現数は月間40隻を越えるようになる。
  • 昭和19年4月現在の第32軍の編成

   @軍司令部 軍司令官、渡辺正夫中将。
         参謀長、北川少将。高級参謀(作戦主任)、八原博道大佐、参謀(航空主任)、釘宮中佐、他。

   A第19航空地区司令部(部隊長、青柳大佐)‥‥‥司令部は那覇の開洋会館。

   (1)第50飛行場大隊(隊長、田村大尉)
   (2)第205飛行場大隊(隊長、吉岡大尉)‥‥‥宮古島。
   (3)独立第3飛行場中隊(隊長、荒野中尉)

   B奄美大島要塞・中城湾要塞・船浮湾要塞の各部隊

   C第6、第7、第8要塞建設勤務中隊の各部隊

  • 昭和19年6月、米軍がサイパン島に上陸すると大本営は第32軍に地上戦闘部隊を編入する。独立混成第44旅団と独立混成第45旅団は沖縄に向かうが6月29日、米潜水艦に撃沈される。
  • 昭和19年7月、サイパン島が玉砕すると責任を取って東条内閣は総辞職、大本営も方針を変え、沖縄の地上戦闘部隊を強化する。
  • 昭和19年8月現在の第32軍の編成

   @第9師団(武部隊、原中将)          ‥‥‥首里、沖縄師範学校
   A第24師団(山部隊、雨宮中将)         ‥‥‥嘉手納、県立農林学校
   B第62師団(石部隊、藤岡中将)         ‥‥‥浦添村
   C独立混成44旅団(球18800部隊、鈴木少将)    ‥‥‥具志川村
   D第5砲兵団(球9700部隊、和田中将)      ‥‥‥首里
   E第28師団(豊部隊、櫛淵中将、のち納見少将)  ‥‥‥宮古島
   F独立混成45旅団(石垣島守備隊、宮崎少将)   ‥‥‥石垣島
   G歩兵第36連隊(大東島守備隊、田村大佐)    ‥‥‥南大東島
   H海軍沖縄方面根拠地隊(新葉少将、のち大田少将)‥‥‥小禄村

  • 大本営は10月までに南西諸島の航空基地を完成させるよう督促する。第32軍は要請に応え、各戦闘部隊の陣地構築作業を一時中止して兵力を飛行場建設工事に投入する。緊急工事は9月中旬から開始され、集中的な突貫工事によって9月末日までには南西諸島の飛行場(徳之島1、沖縄本島3、宮古島2、石垣島1)はおおむね完成。

        読谷飛行場(沖縄北飛行場) ‥‥‥第24師団、第1、第2防衛築城隊(9月1929日)
        嘉手納飛行場(沖縄中飛行場)‥‥‥第44師団、第56飛行場設定隊(9月19日〜29日)
        仲西飛行場(沖縄南飛行場) ‥‥‥第62師団、第3飛行場中隊(9月22日〜30日)
        伊江島飛行場        ‥‥‥独立混成第45旅団、第9師団、第50飛行場大隊(9月19日〜30日)
        宮古島陸軍飛行場      ‥‥‥第28師団、第205飛行場大隊
        宮古島海軍飛行場      ‥‥‥第28師団、第205飛行場大隊
        陸軍白保飛行場       ‥‥‥第128野戦飛行場設定隊、第69飛行場大隊

  • 1010日の大空襲で完成まもない各飛行場はすべて破壊される。被災した各飛行場は飛行場部隊が昼夜兼行で弾痕修理などの復旧作業を行い、何とか滑走路の機能を回復させた。直後から始まる台湾沖航空戦の中継基地としての役割はかろうじて果たす事ができた。
  • 武部隊の台湾抽出で弱体化した沖縄守備軍は10月以降、3次におよぶ防衛招集を実施し、防衛隊と通称される補助部隊を編成する。
  • 3月10日、牛島司令官は伊江島飛行場の破壊を命じる。


  • 昭和19年7月7日の閣議で、奄美大島、徳之島、沖縄本島、宮古島、石垣島の5つの島から老人、幼児、婦女子をただちに引き上げさせる事に決定。県内は大騒動となり、7月末に老幼婦女子10万人を県外に疎開させる事が正式決定される。この時期、県庁を始め県民にとって戦場はかなり遠方で、よもや沖縄が戦場地になるとは思ってもいなかった。また、学校や民家等は軍部が使用する事になり、沖縄に留まる方が安全と思っていた。
  • 県外転出実施要綱

        @実施区域     沖縄本島、宮古島、石垣島、西表島に限定す。

        A転出を認める範囲 60歳以上15歳未満の者、婦女病者とす。
     婦女の転出は老幼者の世話をなす必要ある者及び軍その他において在住の必要なしと認める者。

        B転出期日     概ね7月中において実施するものとす。

        C転出の手続き
            (一)転出の希望は転出申告書を所轄警察署長に提出して証明を受けるものとす。
                (二)証明を与えたる者に対しては旅行証明書及び乗船証明書を与えるものとす。
                (三)転出者の乗船については県の指示による。県は警察署を通じて本人に通告す。
                (四)宮古島、石垣島、西表島における転出者は一応那覇に集合せしむ。
           那覇に至るまでの船便は所轄警察署又は町村において取り計らうこと。

        D転出先
           
(一)転出先は転出者の縁故先とす。
                (二)縁故なくして転出する者は受け入れ側において就職等の斡旋をなすものとす。

        *転出上の注意
        
(一)転出者の荷物は生活上の必需品に限定し転出者1人につき2個以内とす。
           ただし荷物の大きさは柳行李の大きさとす。
                (二)転出に関し問い合わせは警察署係員になすこと。

  • 県外疎開者の10万人の算出根拠は、当時60歳以上と15歳未満の者が約29万人おり、その3分の1を転出可能者と見積もったものと考えられる。
  • 当初の県外疎開者はほとんどが本土出身者の郷里引き揚げだった。
  • 県民の一般疎開は昭和19年7月17日を第一陣として開始され、同年9月15日現在で24,409人、さらに同20年2月初旬には34,993人、その後は戦雲急を告げる中、県外疎開が大いに奨励され、最後の疎開船が出航した3月20日まで延べ187隻の船腹により約6万人が本土へ、台湾には沖縄本島から2,000人、宮古島、石垣島の両群島民あわせて2万人以上の合計8万人余が疎開した。
  • 学童疎開の第一陣は昭和19年8月16日、那覇市内の学童131人が鹿児島に到着し、続いて8月19日、第二陣394人が同じく鹿児島に上陸。第三次疎開船団にて8月21日那覇港を出航した対馬丸は22日午後1015分、魚雷攻撃を受け沈没。この惨事は国民には一切公表されず、わずかの生存者も一時的に身柄を拘束され外部との接触を断たれ、供養の類は一切行われなかった。
  • 1616部隊というのは第32軍司令部の通称名。
  • 昭和1912月中旬から翌年1月中旬にかけて、最強部隊といわれた第9師団(武部隊)が台湾へ移動し、一般住民の間にも動揺が生まれる。
  • 昭和1910月〜12月に第一次防衛招集を実施し、第9師団の台湾抽出後、兵力不足を補うため、20年1月〜3月に第二次防衛招集を実施する。
  • 十・十空襲後、第二高女は知事官舎の仮校舎で看護の仕方、三角巾・包帯の巻き方、担架の運び方などの看護教育を受け、焼け跡の後片付けや陣地構築作業にも従事した。
  • 東風平国民学校の看護教育は治療法、搬入法、消毒法、応急措置法など。
  • 昭和高等女学校は那覇市崇元寺町にあった。昭和19年7月頃には校舎の2棟3教室が武部隊の弾薬倉庫に使用され、学校は崇元寺に移る。
  • 積徳高等女学校は第24師団第二野戦病院(山3487部隊)に入隊し、国防色の看護婦衣、上着、袴下(ズボン下)、日用品、携帯食糧(缶詰、鰹節、乾麺包)、地下足袋などを支給される。当時はまだ患者が少なかったので、受付、経理、薬剤の事務仕事などに5、6名の生徒が回された。病室勤務者は雑役や食糧運搬などにも従事してい た。




十・十空襲



  • 第一次空襲(6:408:20‥‥‥小禄飛行場、那覇港や沖に停泊していた大型艦船が集中攻撃される。泉崎橋が爆破され、橋の下の伝馬船に避難していた病院の入院患者が爆風のため犠牲になった。
  • 第二次空襲(9:2010:15‥‥‥第一次と同じく飛行場や船舶への攻撃。那覇港埠頭や隣接していた西新町の一部にも爆弾が投下され、軍需物資集積所のあった第二桟橋に集積してあったドラム缶が炎上、付近の家屋に引火して火災発生。第二次空襲後の11:00頃、桟橋向かいの垣花町が炎上。米軍機3機が高射砲で撃墜され当間部落に墜ちる。
  • 第三次空襲(11:4512:30)‥‥‥港湾施設への攻撃が主で那覇桟橋は火柱が上がり炎に包まれた。また崎原灯台の近くに停泊していた弾薬輸送船に爆弾が命中して大爆発を起こして沈む。
  • 第四次空襲(12:4013:40)‥‥‥低空の機銃掃射と焼夷弾の投下で那覇港近くの上蔵町、天妃町、西新町、西本町、東町が炎上。軍は武部隊に破壊消防を命じる。
  • 第五次空襲(14:4515:45)‥‥‥第四次と同様で機銃掃射と焼夷弾攻撃。那覇は火の海と化し、避難する住民が右往左往していた。電柱や家屋は火を吹き天を焦がした。


  • 那覇の街は経済・商業の中心地であった西本町・西新町・東町・上之蔵町・通堂町・天妃町・辻町・久米町・久茂地町・垣花町が壊滅。若狭町・前島町・泊町は一部が残り、周辺の真和志村地域や首里市は人的被害にあったものの民間家屋の被害はほとんどなかった。
  • 32軍が空襲警報を発令したのは7:00、空襲警報解除は18:40
  • 那覇以外では読谷(北)飛行場、嘉手納(中)飛行場、仲西(南)飛行場、伊江島飛行場、瀬底島の船舶、渡久地に配備されていた暁部隊の弾薬庫、運天港、屋我地島の癩病療養所の愛楽園も兵舎と間違われ爆撃される。
  • 南風原村与那覇は午後3時頃、空襲にあい全家屋の90%に当たる72戸が焼失。糸満も空襲にやられる。
  • 軍人の死傷者は第32軍関係部隊では戦死136人、戦傷227人、海軍部隊では戦死82人、戦傷16人。沖縄連隊区司令官井口駿三の死体は四散し、あとに帽子と左の靴が残されていたと言われる凄惨な死は軍にショックを与えた。陸軍関係の人夫は戦死約120人、戦傷者70人。
  • 民間の死亡者330人、負傷者445人、そのうち那覇市民の死亡者255人、負傷者358人。家屋の全壊全焼は11,451戸、そのうち那覇は全戸数の約90%に当たる11,010戸が全壊全焼した。
  • 漁船は30隻が沈没炎上。輸送関係では軽便鉄道の機関車や客車が焼失。与那原線と嘉手納線の一部が普通になる。民間所有の自動車の70%が焼失したため以後の輸送問題が深刻になる。
  • 食糧の損害も大きく、主食の米は県民生活の1カ月分が失われた。
  • 空襲前の那覇の人口は5万5千人、空襲後は8千人に激変、すなわち4万7千人が那覇を離れて避難生活を余儀なくされた。親戚、友人を頼って避難していた市民はやがて那覇に戻り、焼け跡や戦災をあまり受けていない真和志村に仮小屋を建てたり、焼け残った家で数家族雑居するという生活を始めた。11月には那覇の人口は2万3 千余になった。
  • 泉県知事は空襲の後、普天間の中頭地方事務所に避難した。県庁舎は焼け残り、警察部と経済部は正常な勤務に就いており、荒井警察部長が空襲の後始末に追われていた。戻らぬ知事に対して県庁を放棄していると非難が上がる。九州地方協議会長に命じられ、泉県知事が那覇に戻ったのは1031日だった。
  • 一部の地域に電灯がついたのは1226日。
  • 空襲前の市内国民学校の児童数は6,561人が空襲後は2,449人、学級数も128から69に激変したため、8校あった学校を5校に減らし、さらに『避難先への編入』や『学童疎開』を督励した。
  • 空襲後、県民は軍への不信感、失望感を覚えた。
  • 焼夷弾はM69と呼ばれ、投下すると麻布製のリボンが飛び出し空中の揺れを防ぎ、着地すると爆薬が炸裂して正六角形の筒の中のナパーム(油脂性ガソリン)が引火、燃焼力で筒を吹き飛ばし四方にナパームを飛散させて火災を起こさせる構造になっていた。これを38個束ねたものがM69焼夷弾であった。
  • 米軍は昭和19年9月27日から昭和20年3月28日までに合計で224機の撮影機が飛来して航空撮影を行った。
  • 昭和1912月9日より第二野戦築城隊によって首里の司令部壕の築城が始まる。
  • 昭和191223日、泉沖縄県知事は出張と称して上京、以後帰らず、1月12日には香川県知事に任命される。
  • 泉県知事に続けと県外出身者では衛生課長、水産課長、工業指導所長、薬剤主任が、県出身者では県会議員、 覇市長が出張や病気を理由に沖縄を後にして戻らなかった。
  • 昭和19年の大晦日と翌年の元旦はB29の来襲で明け暮れた。いずれも被害はなく偵察が目的だったが、第32軍は空襲警報の発令、解除と慌ただしかった。正月3日、4日は米軍艦載機延べ50機が来襲、南西諸島全域の飛行場、港湾施設や船舶を爆撃。
  • 1月22日は6:35に空襲警報発令。米軍機は6:5019:45まで8次に渡り波状的に北、中、南、西、小禄の飛行場、那覇、与那原、津堅島、牧港、名護、渡久地の軍施設や船舶、民間地域では仲間、宜野湾、仲西、与那原、小那覇が爆撃される。




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