沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲




創作ノート




『沖縄県史1 通史』より



  • 1944年7月から翌年3月までに沖縄本島から出た疎開船は187隻、約6万人が九州に引き上げた。3月3日出発予定の疎開船は那覇港内で空襲を受けて炎上し、これをもって本土引き上げは終止符が打たれた。
  • 砲座・銃眼・塹壕・鉄条網・タコ壷・防空壕等々、守備と攻撃のあらゆる作戦に備えた構築が全島を覆い隠して行った。嘉手納から読谷の北飛行場に通じる軍用道路工事は、そのほとんどが女性だった。農村はこうして軍の工事に労力を提供するかたわら、軍隊への芋・野菜・鶏卵・食肉などの提供も命じられていたから、自分の食べ物を減らして、まず割り当て量を確保しなければならなかった。
  • 1010日午前6時過ぎ、日本軍の不意をついて突如として開始される。軍の首脳部でさえ信じられない事だったので、一般市民は『友軍の演習だろう』ぐらいに思って安閑としていた。第一撃は読谷山、嘉手納、伊江島、小禄の飛行場に向けられた。編隊をなした艦載機から大量の爆弾、ロケット弾、機銃が浴びせかけられた。その後、船舶、無線設備、港湾設備などが攻撃目標になり、さらに、午後1時からの攻撃で那覇の街に大量の焼夷弾が投下した。軍の電報は『那覇市は10日午後、第4、第5両次の銃撃及び爆撃を伴う大規模の焼夷弾攻撃により全市火を発し10日夜半までに県庁その他一部を残し烏有に帰せり』と被害の大きさを伝えている。空襲は日没まで5波に及んだ。その範囲も宮古・八重山・大東島は勿論、無防備の小島にまで襲い掛かった。
    この一日で被った被害は人命だけでも548名が死亡、698名が負傷し、このほか物的損害としては那覇市の90%以上が炎焼、県下で11513戸を焼失、那覇港を初め渡久地、運天の港湾と所在船舶のほとんどが撃破された。また、離島は連絡船や漁船の大かたを失い、この結果、島の住民は食糧と情報を断たれ、戦時中外部の一切から孤絶する運命に追いやられた。軍関係では飛行場、船舶の甚大な被害は言うまでもなく、1ケ月の軍用食糧と多くの燃料・弾薬を失い、爾後の作戦計画にも重大な影響を及ぼす程の打撃を被った。
  • 1012日〜16日、台湾沖航空戦が展開され、大本営は味方の大勝利と発表、焼け野原となった那覇の街で『那覇の街の仇は見事に討ち果たした』というビラが配られた。家を焼け出された難民たちは涙を浮かべて万歳を叫んだ。しかし、この戦勝の報は全くの誤報だった。
  • 1945年年明けか早々から沖縄諸島は引っ切りなしに空襲にさらされた。1月3日、4日、22日、3月1日の空襲がとくに大規模だったが、このほか、『定期便』と称される小編隊が絶えず沖縄上空に現れ、軍の輸送船のみならず漁師の小舟までが危険にさらされた。
  • 3月23日から沖縄本島は連日激しい空襲を受けた。24日から艦砲射撃も加わった。先島には26日から英空母艦隊の砲爆撃が行われた。ついに、沖縄本島南沖合に米艦隊が目撃されるにいたった。
  • 3月26日午前8時4分、米軍、阿嘉島に上陸、その日のうちに3分の2を占領する。
  • 4月1日、米軍、沖縄本島の中部西海岸(北谷、読谷山)に上陸作戦を開始した。バックナー中将率いる上陸部隊、第10軍は艦船1400隻、陸軍と海兵隊併せて7個師団、183000人の大部隊だった。
  • 米軍上陸の時点で第32軍の兵力は10万を越えていたが、そのうち現地徴兵・召集された沖縄県人が全勢力の3分の1を占めていたといわれる。
  • 4月7日、米軍は戦車を先頭にたてて大謝名−我如古−和宇慶の日本軍の主陣地全線に猛攻をかけた。8日、内泊−嘉数−我如古−和宇慶の全線で戦闘が展開された。10日、嘉数高地で一進一退の激戦が続く。11日、嘉数の争奪戦続く。12日、第二回目の日本軍の航空総攻撃(菊水2号)と守備軍の夜間総攻撃。19日から米軍は総攻撃に転じ、全線にわたって激戦が続いた。激戦は5月下旬まで続く。この1か月余の主陣地地帯での戦闘で、日本軍第62師団と第24師団の主力は4分の1から5分の1の兵力に激変し、軍砲兵は約3分の1になり、軍司令部の首里撤退の頃には組織的攻撃力を失っていた。
  • 伊江島では4月16日から6日間にわたって守備隊が全滅するまでの激しい戦闘が繰り広げられていた。
  • 学徒隊は師範学校および中学校男子の3年生以上が『鉄血勤皇隊』に、2年生が通信隊に、女学校生徒が従軍看護隊に編成され、部隊の指揮下におかれた。『鉄血勤皇隊』は陸軍二等兵の待遇を受け、一部は銃を支給され前線の戦闘に参加した。
  • 4月24日、首里周辺の住民に対し南部への移動命令が出される。
  • 5月29日、首里城は米海兵隊に占領される。その時、首里の古都は建物2軒残るだけで後は一面の瓦礫の原に化していた。
  • 6月7日頃から米軍は島尻戦線に本格的な地上攻撃をかけて来た。






『沖縄県史8 沖縄戦通史(琉球政府)』より



  • 昭和3年7月、全国に特別高等警察が設置される。
  • 昭和6年9月18日、満州事変勃発。
  • 昭和7年3月1日、満州国が独立し、日本の占領支配下におかれる。
  • 昭和12年7月7日、日中戦争勃発。
  • 昭和1211月、大本営を天皇直属の最高統帥機関として設置する。
  • 昭和13年4月1日、『国家総動員法』が公布される。
  • 昭和15年9月、隣組制度は政府の方針として指示される。
  • 昭和1612月8日、沖縄に灯火管制が敷かれ、空襲のための警戒警報が発せられ、県民はうろたえるが、緒戦の勝利に県民は手放しで喜び、波上宮で市民は歓喜の万歳を叫ぶ。
  • 海上不安に関するもの、軍事に関するもの、物資不足に関するもの、空襲に関するもの、軍機漏洩、反戦言辞、移民に関するもの、警察官職非難、旱魃についての言辞も取り締りを受けた。
  • 学童が怪しげな人物を追跡したところ、それが憲兵隊長だった。学童は戦時下の学童として立派であると隊長から褒められた。それが、またとない誇りとして人々の口から口へと広がって行った。
  • 昭和18年夏、沖縄全県下に11ケ所の監視哨(那覇、糸満、本部、金武、国頭、嘉手納、与那城、宮古島、八重山島、西表島、久米島)を設置する。
  • 回覧板によらなければ生活ができなくなる。物資の配給、勤労奉仕、防空演習の通達が町内会から隣組を通じ各戸へ伝達された。
  • 隣組長は町内会長の下にあって、その町や字の有力者だった。防空演習になると真っ先に飛び出し、自分の班のまとめをした。勤労作業も休まず班の先頭に立たなければならなかった。
  • 昭和18年夏、沖縄防衛軍が陸続として上陸を始める頃より防空壕掘りが盛んになる。まず、家庭用の防空壕が掘られ、警防団員が指導に当たった。次に隣組単位の壕が主として道路脇に掘られた。この壕は隣組の人は勿論、通行中の人も緊急の際にはすぐに飛び込めるというのがねらいだった。退避壕はだいだい深さが1メートル50センチ以上で、7、8名が入れる位の広さを持っていた。そして、上部は竹や枝をわたし、それに土でえんぺいし破片を防ぐように工夫されていた。
  • 勤労作業を拒む者は非国民と決めつけられた。作業の当日になると早朝から太鼓やラッパで集合を呼びかけ、全員が集合すると町内会の旗を先頭に隊列を組んで作業目的地へ向かった。
  • 昭和17年から沖縄戦にいたるまで、那覇の人々は闇物資を入手する事によって生活をした。
  • 昭和18年から19年にかけて、沖縄の代表的なデパートの山形屋、円山号の食堂でポテトのランチが1円だった。
  • 当時、那覇には平和館、旭館、真楽座、国民劇場があった。国民劇場は西新町の埋立地にある関係から早くから軍倉庫として使用された。ほかの館も兵隊の移動時の休憩所や宿泊所に使用される。
  • 昭和18年も暮れると街行く男性は国民服にゲートル、婦人はモンペ、しかも胸もとには住所氏名、血液型を書いた名札をつけていた。
  • 昭和16年7月から沖縄は40年来といわれる旱魃に見舞われ、配給量も減って行った。
  • 電灯設備は那覇、首里のほかには、ほとんど恩恵に浴していなかった。那覇と首里の電灯も次第に停電が多くなり、点灯してもただ赤く灯っているだけで人の顔も識別できなかった。
  • 沖縄県民は昭和18年の秋頃から夜を楽しむという生活を失った。
  • 那覇の名物は人力者だったが、若い人が徴用で取られ、年とった人たちが車のカジ棒を握るようになった。
  • 那覇から与那原まで汽車は小1時間かかり、運賃は18銭。
  • 昭和19年度から高等科を含む8年間が義務教育となる。
  • 学徒隊は昭和18年半ば頃から現地在の各部隊に協力し、陣地構築、食糧運搬、その他に動員される。
  • 昭和19年夏、サイパンが玉砕すると那覇が空襲されるとの噂が広まり、那覇市民は家財道具を地方に避難させた。
  • 昭和19年7月7日、沖縄県知事に疎開命令が届く。県当局は火をついたような慌ただしさに包まれる。
  • 那覇の国民学校は8校(垣花、上山、那覇、泊、甲辰、久茂地、天妃、松山)。
  • 昭和19年7月下旬、県庁職員の家族が第一陣として軍艦で送り出される。那覇の街にはにわかに古道具屋が店を広げた。疎開する人が持って行けない道具類を処分するために戸板の上に並べて売り立て、買い手がつかなければ捨てておかれた。
  • 対馬丸の沈没は軍の秘密事項だったが、たちまちのうちに市内に流れ始めた。やがて、子を失った親が校長先生を攻めた。
  • 米軍は初めから中部から上陸する計画だったが、多くの住民は南部から上陸するものと思い込んでいた。
  • 昭和20年2月14日、楚辺国民学校で校長会が開かれ、県庁から教学課、輸送課の職員も出席する。
  • 昭和20年3月23日の空襲の時、米軍が沖縄に上陸するとの噂が流れ、中、南部の人々が持てるだけの荷物を肩に北部を目指した。人々の列が昼夜の別なく北部へ向けて続いた。中には日本軍を頼って中部から逆に南部へ行く者もいた。
  • 昭和191010日午前7時、那覇市は東町の市役所望楼のサイレンが空襲警報を告げる。
  • 那覇市の空襲    第一波、約240機、午前 6:30〜午前 8:00
                        第二波、約220機、午前 9:20〜午前10:15
                        第三波、約140機、午前11:50〜午後 0:30
                        第四波、約130機、午後 1:20〜午後 2:40
                        第五波、約170機、午後 2:50〜午後 3:50
  • 1010日から3日間、第32軍は兵棋演習を行う予定で、前日の夜には南西諸島守備の各兵団長幕僚が集まって宴を催していた。
  • 10日の夕方、警防団員が回って来て、敵が上陸して来る公算が大きいから、今夜中に北部の山中に向かって避難せよと告げる。人々は夜空を焦がす火を背に壕を出て北部に向かった。
  • 風向きや敢然と消火に当たって焼け残った家が山下町、天妃町、若狭町、久茂地町、高橋町、崇元寺町、美栄橋町その他にあり、そういう家は親戚や知人たちが間借りして、どの家も溢れるばかりの人が入った。焼け跡に板切れやトタンなどで掘建小屋を作って移り住んだ人もいた。市内に住む家を見つけられない人は首里市、真和志村などに家を借りた。浦添村辺りまで俄に人口が増え食糧や日常品などの配給業務が一時混乱した。
  • 対馬丸の遭難以来、疎開に足踏みしていた人も再び、疎開の決意を固めた。
  • 十・十空襲後は毎日のようにB29が単機あるいは2機で偵察飛行に来たが大規模に空襲はなかった。
  • 昭和20年は空襲と共に明けた。大規模な空襲は3月1日と3月23日。
  • 昭和20年2月7日、長参謀長、県庁に島田知事を訪ねる。部長以下、戦争に直接関係のある課長ら10名程が知事室に呼ばれる。その日、午後から部課長会議が開かれ、夜まで続く。
  • 部課長会議は連日続き、食糧問題、県外引き揚げ、北部退避などが討議される。
  • 食糧営団長の真栄城守行と食糧配給課長の呉我春信が台湾に派遣される。
  • 2月11日(紀元節)、県庁では疎開業務を円滑に促進するため、新しく、人口課が設けられる。課長は浦崎純、主任属金城謙吉、業務係玉城美五郎、名嘉原知光、経理主任国吉喜盛、教学課の永山視学が兼務として発令される。早速、県立二中の焼け残った同窓会館に新しい看板を出して業務を開始する。人口課はこれまで警察部特別援護課が担当していた県外への疎開と県内北部への疎開を一手に引き受ける機構として内政部に属した。
  • 疎開事務に携わる国頭地方事務所を名護町の東江国民学校に置き、日本軍部隊への食糧供出と疎開民の地域割当にあたった。
  • 3月24日、県庁は重要書類を焼却し、首里へ移動。
  • 3月31日、軍司令部は老幼婦女子の北部への移動停止を命じる。
  • 十・十空襲後のやレアとも寸土余さず野菜と甘藷の畑に変わる。灰は肥料となり素晴らしい生育ぶりで葉野菜は11月半ば頃から食用に供され、甘藷の収穫も間近だった。
  • 4月5日、米軍、名護に上陸。
  • 学徒の作業は朝8時から夕方5時まで、午前中10分、午後10分の休憩と正午1時間の昼食時間の他は休む事のできない重労働だった。十・十空襲後は休日もなかった。兵隊との接触により喫煙を覚え、卑猥な歌謡を覚えた。
  • 正規の授業は行われなかったが、全く教科が無視された訳ではなく、例えば、午前中は授業と教練、午後は奉仕作業。あるいは午前中は作業で午後は授業と教練。英語はなくなり他の教科も大幅に時間数が減り、教練は毎日あった。教師も出征している者が多く、その補充は困難になっていた。
  • 二高女の生徒は那覇市内在住の者が多く、他県からの居留者の子女が多かった。
  • 5月になって戦いがますます激しくなると生徒たちは負傷兵たちと一緒に住むようになり、昼間を2交替で寝て、夜間は飯上げ、水汲み、埋葬、新患者受け入れなど夜の明けるまで続いた。
  • 6月18日頃から、それまで激しかった空と海からの米軍の砲爆撃は止み、散発的な戦闘があるだけになった。米軍攻撃部隊が高嶺、糸満、真壁、摩文仁の各村に進出して来たので同士討ちを避けるため。
  • 知念村、兼城村、具志川村前原、越来村胡屋、北谷村、久志村大浦、金武村宜野座、羽地村田井、石川に難民収容所ができた。捕虜収容所は北谷村屋良にあり、後日、金武村屋嘉(将校)、那覇市奥武士山公園グランド(下士官)もできる。ハワイではホノルル市とヒロ市に収容所があった。
  • 6月20日、午前5時頃から猛雨となる。雨は40分間でやみ、天気は一変して快晴。空爆も銃撃も砲撃もない。
  • 2月11日、紀元節。3月6日、地久節。3月10日、陸軍記念日。4月3日、神武天皇祭。4月29日、天長節。
    5月17日、波上祭。9月23日、秋季皇霊祭。1017日、神嘗祭。11月3日、明治節。1123日、新嘗祭。
    1225日、大正天皇祭。




創作ノートの目次に戻る




inserted by FC2 system