沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲




創作ノート




沖縄一中・鉄血勤皇隊の記録(上)



兼城一著『沖縄一中 鉄血勤皇隊の記録 上』より





  • 昭和18年秋、県中学バレーボール大会で一中は優勝。
  • マチマーイ(町まわり)‥‥‥沖縄の中学生は下校後、制服制帽を着用して散歩がてらに目抜き通りをのし歩くという行動様式があった。
  • 昭和19年7月7日、政府は沖縄県から老幼婦女子を本土に8万人、台湾に2万人を軍の輸送船や艦艇で疎開させる事に決定する。
  • 昭和19年9月、第一次防衛招集、同年10月〜12月、第二次防衛招集、昭和20年1月〜3月、第三次防衛招集。教職員も多数招集される。
  • 7月中旬、県庁職員の家族と寄留商人の家族を乗せた最初の疎開船が出航。
  • 十十空襲後は学校の授業はほとんどなくなり、第32軍の陣地構築や学校の壕掘り作業ばかりが続いた。
  • 空襲後、焼け出された那覇市民が縁故を頼って首里に大勢避難して来たので、首里の下宿者たちは避難民と相部屋になったり、部屋を明け渡したりしなければならなくなり、やむなく帰省する者が多かった。
  • 昭和191118日、空襲後、休校になっていた一中は授業を再開する。
  • 2月初旬頃、一中から19名の3年生が沖縄県庁に連絡員として派遣される。仕事は文書の配布や整理が主で知事官房秘書課、人事課(糸数青重課長、板良敷朝基主任)、教学課(安里延課長、遠藤主任)、土木課、農地課などに数名づつ配置された。県庁各課は米軍上陸の直前、首里高女グランド裏の壕に移動する。
  • 昭和20年2月10日、那覇、首里、島尻、中頭の2市2郡に居住する、戦闘の足手まといになる60歳以上15歳以下の老幼婦女子は国頭地区への緊急疎開を開始する。西海岸沿いの国頭街道(現在の国道58号とほぼ同じ)は避難する人たちの列が途切れる事なく続いた。
  • 2月上旬、奉安殿の天皇、皇后の写真が崇元寺交番前に集められる。
  • 2月6日、久米島真泊を出た『嘉進丸』が米軍機に撃沈される。一中3年生1名が戦死。戦後、仲里小学校の裏山に慰霊碑が建てられる。
  • 2月、本土出身の教職員は引き上げを勧告される。
  • 2月11日、紀元節の朝、疎開船『大伸丸』が鹿児島に向かう。当初、中学生の疎開は制限されていたが、十・十空襲後に緩和され家族と疎開する中学生が増えた。学校側は疎開を申し出た生徒には疎開先の中学に問題なく転校できるように必要な書類を発行した。
  • 2月19日、米軍が硫黄島に上陸し、沖縄上陸の危機は回避され安堵する。
  • 2月19日、一中五年、四年、三年生は沖縄一中防衛隊を結成する。沖縄戦が始まれば防衛隊はそのまま鉄血勤王隊に移行し、藤野校長を初め職員、生徒は篠原保司配属将校の指揮下に入る事になっていた。首里市では市内全中学校防衛隊の合同結成式が記念運動場で盛大に挙行される予定だったが、早朝より警戒警報が発令されて取りやめとなり防衛隊は学校ごとに結成された。県内各地で中学校の防衛隊は結成される。
  • 一中にはもともと報国隊という組織があった。第59期生(昭和17年入学)の生徒手帳には、すでに『一中報国隊』という名称が印刷されている。生徒手帳には校歌、校訓、生徒信条、実践綱領、学則、規則、生徒心得などの他に、報国隊則、細則、編成にいたるまで全文掲載されている。報国隊員章は菊水のマーク。
  • 2月下旬、一中生徒はたまうどぅん(王陵・第二尚氏王朝の陵墓)のワイトゥイ(切り通し)の東側にコの字形壕を掘っていた。
  • 2月25日、首里儀保町の下宿、泉川家に4年乙組の生徒約40名が集まり、現役入隊する2名の壮行会を行う。招待した若手将校はディック・ミネの『アイルランドの村娘』を歌う。
  • 牧港の樹齢百年を誇る牧港の松並木は軍の杭木に使うため大方は伐採された。
  • 3月1日、大正15年生まれ(満18歳の者)の生徒は初年兵として県内の各部隊に入隊する。
  • 3月1日、その年、3度目の空襲あり。
  • 3月3日、最後の疎開船『鳥海山丸』『興国丸』『甲州丸』が鹿児島へ出航。
  • 3月初旬、昭和20年度上級学校第一次合格者が発表される。沖縄連隊区司令部は3月1日の現役入隊者のうち、『上級学校理工系に合格した者に限り、第二次試験のため入隊を猶予する』処置を取り該当者の氏名を各部隊に通告する。
  • 一中の合格者の名は学校庶務室の掲示板に張り出された。一次試験は全員合格した。理工系の二次試験は3月23日、開南中学で実施されるはずだったが、空襲が始まり実施不能になった。
  • 進学志望書類の提出は2月1日から10日まで、第一次選考結果発表は3月1日、第二次選考は3月19日〜21日、合格者発表は3月31日となっていた。
  • 当時の中学生の下宿代は月額20円。
  • 3月15日、5年、4年、3年の報国隊員はこの日から首里居住者を除く全員が養秀寮で合宿を開始し、陣地構築に従事するようになる。作業は主として記念運動場地下の壕掘りで、砲弾や燃料の運搬などにも従事する。朝夕点呼の後、士気高揚のため、万朶の桜か襟の色と歌い出す『歩兵の本領』を斉唱させられる。この日、報国隊員章が支給される。
  • 暁部隊は海上輸送をしていた。瀬戸内海の小豆島に本部があり、陸軍。
  • 3月21日、国頭に疎開する那覇市民は那覇駅から嘉手納駅まで汽車を利用する事が許可される。当時、軍は嘉手納から武器弾薬を島尻に運んでいたため、嘉手納行きは空だった。
  • 3月23日、米軍艦載機の大編隊による波状攻撃が始まる。高度2、3千メートルの識名上空から編隊機が1機づつ銀翼をひるがえして小禄飛行場めがけて急降下を繰り返した。首里市街にも屋根すれすれの低空から銃撃を加えた。はるか北飛行場、中飛行場方面は黒煙に包まれていた。延べ355機、沖縄全域にわたる空襲は終日続く。学校は自然休校。
  • 3月23日、3年丙組と丁組の生徒は中城湾の要衝、津堅島の砲兵陣地構築に動員され、与那原から船で渡る事になっていた。早朝、与那原に向かうが空襲が始まり首里に引き返す。
  • 3月24日、来襲する敵機は600機に増える。前日に勝る猛爆撃の中で、米艦隊はまず具志頭村港川沖に、続いて那覇沖合に姿を現す。敵の上陸意図は明らかになり、街は緊迫した空気に包まれる。
  • 3月24日、久米島と那覇を結ぶ船が撃沈され、久米島に帰っていた者は那覇に戻れなくなる。
  • 3月24日、首里市観音堂下の放送局の鉄塔近くに最初の爆弾が落とされる。横殴りに襲い掛かる爆風の物凄さに肝をつぶす。学校は自然休校。翌日、放送局の鉄塔は爆弾が命中して吹っ飛ぶ。
  • 3月24日(土)から26日(月)にかけて、養秀寮の生徒は家族面会のため帰宅を許される。
  • 『君の為何か惜しまむ若桜散って甲斐ある命なりせば』特殊潜航艇で真珠湾を奇襲攻撃した古野繁実少佐の時世は当時の中学生が好んで口にしていた。
  • 3月24日の晩、首里から普天間までの宜野湾街道は陽迎橋辺りから次第に人が増えだし、まもなく人の洪水のようになる。島尻は危険だと国頭に避難する者、国頭に避難したものの、どこも避難民が一杯で食糧はなく、餓死するから家に帰るという逆戻り組。歩き疲れた年よりと女子供の阿鼻地獄で悲惨な状況だった。北谷に近づくにつれ道路には大きな穴があき、爆撃の物凄さを物語っていた。
  • 鉄血勤皇隊の入隊申込書には親権者の承諾の印鑑が必要だった。
  • 3月25日、米艦隊は港川方面への陽動作戦のため砲撃を開始し、数十隻の上陸用船艇が今にも上陸せんばかりに活発に遊弋しだす。夜になって照明弾が間断なく打ち上げられ山々の稜線の彼方には照明弾の光芒が人魂のようにいくつも揺らいだ。
  • 戦前、那覇を起点に3本の軽便鉄道、嘉手納線、与那原線、糸満線が走っていた。嘉手納線沿いの北谷、宜野湾、浦添方面の一中生は最寄りの駅から安里駅まで汽車に乗り、安里から学校までの1キロの道を歩いて通学したので汽車通学生と呼ばれていた。
  • 3月25日、米軍の慶良間砲撃を上陸と誤認し発表する。米軍が上陸したのは翌日だった。
  • 3月26日、米艦隊1200隻が沖縄本島を取り巻く。一中剣道場裏の木立の間から数え切れないほどの米軍艦が慶良間からこちら側の海に間隔をおいて幾列も並んでいるのが手に取るように見えた。黒い軍艦の列の中には点々と白銀色の軍艦も混じり、まるで琉球絣の柄でも見ているようだった。あまりの恐ろしさに声もなく、夢でも見ているのかと立ち尽くした。
  • 3月27日の夜、一中の五年生と四年生の合同卒業式が養秀寮裏の空き地で挙行。父兄の姿はなく、中城うどぅんを宿舎にしていた島田知事と養秀寮を宿舎にしていた軍参謀、木村正治中佐が出席した。『仰げは尊し』のかわりに『海ゆかば』の歌で締めくくられる。卒業式が終わった頃、雨が降り、やがて土砂降りになる。
  • 3月27日、国頭街道は避難民の列が続く。
  • 3月27日、一中生徒五年、四年、三年生約220名は球(たま)9700部隊(第5砲兵司令部)に編入され、翌28日に入隊する。
  • 3月28日、養秀寮に集まった一中生徒三年生以上およそ220名は鉄血勤皇隊に入隊し、篠原配属将校の指示に従って小隊を編成する。十数名は帰される。
  • 一中鉄血勤皇隊の食糧は第5砲兵司令部(球9700)から支給される事になっていて、前以て○○名分を賄う事にするとの内示があった。
  • 首里のバス通りの家々の壁にスローガンを書いた紙がべたべた貼ってあった。『鬼畜米英上陸近し何するものぞ撃ちてしやまん』『青い目のアメリカ兵はトリ目が多い夜襲かければ必勝だ』
  • ヒージャーミー(ヤギの目、碧眼の白人を意味した)。
  • 首里当蔵(とうのくら)大通りの民家の雨戸に『沖縄よいとこ一度はおいで米軍撃滅したところ』と書いたスローガンが貼ってあった。
  • 3月28日、一中生徒二年生115名は球18830部隊(電信第36連隊)に通信隊員として入隊し、第4中隊(壕は繁多川の斜面の岩盤の下)に35名、第5中隊(壕は第4中隊と同じ)に35名、第6中隊(壕は南風原村本部集落の西側)に34名、固定中隊(壕は金城町の石畳の道から東へ1キロほど行った丘の麓)に11名が配属される。
  • 3月28日、夕方、憲兵と工兵により泊高橋は爆破される。
  • 3月29日、養秀寮庭に整列した鉄血勤皇隊は二等兵の襟章のついた軍服上下と軍帽、帯革、軍靴、飯盒、毛布、褌2本などを支給される。生徒と共に職員も鉄血勤皇隊に入隊し、篠原保司将校の指揮下に入った。一中職員は軍属扱いになり、藤野校長は佐官待遇、野崎教頭は尉官待遇。球9700部隊から9名の教導班員が派遣されて来る。渡辺見習士官、山本軍曹、森伍長(乙種幹部候補生)、船垣兵長、柏木上等兵、馬場上等兵、村山一等兵、他一等兵2名。
  • 養秀寮の生徒は5年生を除いて全員が炊事要員に当てられた。寮の炊事設備を利用して、もっぱら鉄血勤皇隊の食事を賄った。食糧は金城町の石畳の道の下方にある集積所や学校のグランドに野積みしてある軍の糧秣から支給された。
  • 仲松庸良用務員の二人の娘は一中の壕に入る事を許され、炊事班として働く。野崎教頭の妻も妊娠7ケ月の体で炊事班として一中壕に入る。
  • 儀保町の西森の壕には首里市役所、食糧営団、大政翼賛会沖縄県支部の職員と家族、沖縄刑務所の看守と受刑者が入っていた。
  • 3月31日、米軍は上陸に先立ち、那覇西方約10キロの海上に浮かぶ無人の神山島(俗称チービシ)に155ミリカノン砲(通称ロングトム)16門を据え付ける。人々はチービシ砲と呼び恐れた。
  • この頃、首里は艦砲の心配はなく、飛行機に気をつければ自由に歩けた。
  • 県庁の壕は首里高女グラウンドにあり、迷路のように曲がりくねっていた。首里高女から机や腰掛けなどを壕内に運び込んで仕事場を設け、各課ごとに課名を書いた標示板を天井からぶら下げ、その下で事務を取っていた。
  • 3月31日、二次試験を受けていないのに合格が発表される。一中から広島高等師範に1人(5年)、東京高等師範(5年)に1人、広島高等師範に比嘉森正(4年)が合格。七高に1人、五高に1人、桐生工専に1人、宮崎農専に1人合格。
  • 3月下旬、コの字形の壕は完成していたが、この壕だけでは全隊員を収容できず、コの字壕の裏側を養秀寮庭まで貫通させると同時に、切り通しの道を挟んで対面する岩盤の下にも新たに西壕を構築する事になる。
  • 池端町に専売局の煙草倉庫は戦争が始まると職員は避難して無人になっていた。隊員の中には煙草を木箱ごと持ち出す者もいた。
  • 首里石嶺町の松の台地に沖縄地方気象台があった。
  • 南風原村兼城十字路付近に球(たま)18811部隊(陸軍貨物廠)の支所があり、糧秣などが保管されていた。
  • 4月1日の夜、満月が水平線上に上る。
  • 4月初旬、県庁に連絡員として派遣されていた3年生18名は配属将校の命令で学校に復帰する。
  • 『アイエーナー』沖縄口、驚いた時、悲しい時に発する感嘆詞。
  • 米軍の上陸後1週間もしないうちに約1万人の住民が米軍に保護され、4月下旬には12万人に達した。
  • 村民たちは『鬼畜米英は男は戦車の下敷きにし、女は乱暴したのち銃殺にする』と信じていた。
  • 飯上げは各小隊の当番が来る事になっていたが、教導兵が突然、取りに来なくなり放っておくと、森伍長がやって来て、炊事班員を整列させ二人づつ向かい合って対抗ビンタをさせられた。
  • 4月上旬、鉄血勤皇隊は遺書を書かされる。
  • 4月上旬、昼間の炊事は炊煙がトンボ(敵のセスナ観測機)に発見されるおそれがあるので取りやめ、砲声がやや静まる朝と夕方の安全時間帯にやった。芋掘りや野菜探しなどもその時間帯にやった。
  • シラミというものを見た事もなかったが、大陸から沖縄に来た部隊が連れて来たのか前年の夏、高射砲陣地の作業中に発見して仰天した。昔から天変地異の際に発生するといわれ厄ジラミと呼ばれていた。人間の血をたっぷり吸ったシラミは腹はふくれ上がって丸みをおび、背中は黒ずんでグロテスクだった。シラミに咬まれるとむず痒くなり軍服の上から掻いたぐらいではおさまらない。天気のいい日には服を脱いでシラミ退治に励んだ。
  • 汀良(てら)町の受信所の鉄塔の周囲は見渡す限り芋畑だった。
  • 那覇久茂地の民家に食糧探しに行き、無人になった民家の台所から食糧の足しになる物を白昼堂々と漁り歩く。松尾の山形屋の寮からぜんざいの材料を見つけ、一中壕に運び、炊事班に収める。
  • 洗面、水浴の場所は寒川町のヒージャー(樋川)だった。歴史を感じさせる石造りの水槽は清冽な水があふれ水ごけのゆらぐのが透けて見えた。朝になると百名以上の隊員が入れ替わり立ち代わりやって来た。砲弾が激しくなると、いつの間にか洗面する者はいなくなった。
  • 養秀寮の近くに軍参謀の妾が3人いて、それぞれ民家を借りて住んでいた。派手な衣服と色白の顔で、辻遊郭の人だった。二十歳を過ぎたばかりの女だったが参謀の妾というわけで気位が高くて道で会う一中生たちを歯牙にもかけなかった。
  • 玉陵の森は野外便所になっていて、糞のそばを通ると何十、何百という銀蝿がウワーンと羽音を立てて一度に舞い上がり顔にもぶつかったが一々気にしていられなかった。
  • 鉄血勤皇隊は連日、軍司令部や第5砲兵司令部の陣地構築に動員された。作業の合間に、教導兵から対戦車攻撃の訓練を受ける。
  • 4月上旬、鉄血勤皇隊員12名は物資集積所の衛兵勤務を命じられる。1組3名編成の4組で5月13日まで勤務した。動哨2時間、控え2時間、仮眠4時間のローテーションだった。記念運動場裏の空き墓の上に庇のように岩で覆われた所があり、そこが衛兵所になっていた。衛兵所の前は爆風除けとして土嚢を高く積み上げ、墓の奥は仮眠所になっていた。
  • 4月8日、大詔奉戴日のこの日、球9700部隊から菊の紋章入りの煙草と菓子(落雁)が支給される。『煙草は戦勝記念のお土産にせよ』と言われた。恩賜の煙草は隊員2人に一箱(10本)支給。恩賜の菓子は各人に行き渡るほどなかったので炊事班がぜんざいをこしらえた。炊事班から甘い物が出たのは後にも先にもこの時だけ。
  • アメーバ赤痢の治療法は絶食。アメーバ赤痢患者は玉陵の南斜面の自然壕に隔離された。
  • 遠くに飛んで行く弾はヒュルヒュルヒュルと長く尾を引く空気の擦過音でわかった。日中ならば、そういう弾は空高く飛んで行く黒い怪鳥のように一直線に飛んで行くのが肉眼でも見えた。夜間なら火の玉のように夜空に軌跡を描いて飛んで行くのがはっきりと見えた。10メートルぐらい離れた所に落ちる弾はヒュッと短く音が聞こえた途端に炸裂した。体を伏せる時間の余裕はほとんどなかった。飛び散る破片でやられる場合もあるがたいていは無傷だった。もっと近くに落ちる弾は音はなく、いきなり炸裂した。何が何やらわからず、無我夢中で逃げ出さなければならなかった。運よく死を免れてたとしても大抵は破片で負傷した。無傷の場合でも爆風にやられ、しばらく音が聞こえなくなった。
  • 4月12日、養秀寮が被爆し隊員3名が亡くなる。
  • 4月18日、一中の講堂を初め物理、科学教室、宿直室などの木造校舎が炎上し、コンクリート校舎の内部造作部分も類焼。グラウンドに集積してあった珠9700部隊の米その他の糧秣類もほとんど焼失した。
  • 4月も半ばを過ぎると首里市内の民家は砲弾で破壊されたり焼かれたりして無傷の家は目に見えて減って行った。民家に火がついても消火にあたる人影はもうなかった。
  • 4月28日、19名が鉄血勤皇隊を除隊。
  • 5月4日、炊事場がチービシ砲に直撃され隊員2名が死亡、1名が左腕に重傷を負う。
  • 5月上旬、無煙炊事場の調子がおかしくなり炊事に時間がかかるので食事は日に一度まとめて雑炊を炊き朝と晩の2回にわけて給食するようになる。
  • 沖縄に送られて来た朝鮮人の軍属は数千人に達した。特設水上勤務中隊、略して『水勤』と呼ばれた。
  • 5月13日、衛兵所に艦砲が命中、隊員3名が死亡。
  • 5月14日の夜、鉄血勤皇隊本部の先発隊、15日の朝、保栄茂に到着。
  • 5月14日、日が暮れてから野戦重砲兵第1連隊に配属された隊員たちが東風平村志多伯に向けて出発する。
    首里崎山→ナゲーラ→南風原村兼城→南風原村照屋→山川→友寄→東風平→志多伯。




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