沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲




創作ノート




『新聞記者が語り継ぐ戦争11 沖縄白梅の悲話(読売新聞社)』より




  • 師範学校生、上級生を中心とする旧制高女生は学徒看護婦に、満17歳以上25歳までの独身女性は女子救護班へ、同年齢の既婚女性は炊事、雑役を手伝う婦人協力隊へと組み込まれた。
  • 第二高女4年生は松・竹・梅の3クラスに分かれ、松の担当は金城宏吉教諭。
  • 那覇市の中心、松尾山にあった第二高女の校舎は1010日の空襲で跡形もなく焼失。
  • 空襲の後、稲福全栄校長の勧めで教師も生徒も次々に本土や北部国頭へ疎開し、全校生徒は3分の1程に減り、4年生も150人のうち60人余りか残るだけとなった。
  • 昭和20年3月6日の朝、沖縄県立第二高等女学校4年生54人は当時、那覇から与那原まで走っていた軽便鉄道の那覇市国場駅前に集合し、東風平国民学校に本部を置く第24師団陸軍病院看護教育隊(山三四八六部隊)に入隊した。四列縦隊で体育の与那覇政男、国語の金城宏吉両教諭が先頭に立った。
  • 山三四八六部隊は総勢200人、第一から第六までの内務班に分かれ、第一、第二、第三班は那覇市の私立積徳高女55人、第四、第五班は県立第二高等女学校『白梅隊』、第六班は男の初年兵。
  • 古い木造の2教室に20人づつ、第四、第五班に分かれて寝起きした。
  • 昭和20年3月18日、最初で最後の外出許可が降りる。
  • 3月23日午前7時、第32軍は空襲警報を発令。白梅隊の女子学徒は兵舎になっている東風平国民学校の裏山に掘られた大きな防空壕に避難。警報は夕刻まで続き、艦載機のべ355機の銃爆撃を受ける。
  • 3月24日午前9時、米軍の戦艦以下30隻は南部地区に艦砲射撃を開始する。正午、看護婦としての実地訓練を受ける。午後6時、壕から戻った内務班で非常呼集。『本日ニテ特別教育ヲ修了スル。二高女ノ学徒ハ富盛ニアル第一野戦病院ヘ。積徳高女は豊見城ニアル第二野戦病院ヘ配属ニナッタ。コノ事ハ決シテ他言スルナ」
  • 3月24日の夜、『白梅隊』は東風平を出て、富盛にある第一野戦病院に配属される。二列縦隊、先頭は衛生兵、続いて与那覇政男教諭。
  • 病院は豊盛の集落から約500メートル離れた八重瀬岳の中腹に掘られた壕の中にあったが、まだ完成していなかった。教え子を軍属として正式入隊の手続きを済ますと与那覇教諭は引き上げる。
  • 第一野戦病院は下の壕、上の壕と呼ばれる二つの壕から成り、下の壕は丘を切り崩した人工のもので4つの入り口があり、通路は網の目のように張り巡らされていた。本部、病室、薬局などがあり、上の壕は自然壕で手術室などがあった。収容可能は約500人。病院の陣容は軍医、衛生兵、陸軍看護婦ら193人。それに白梅隊が加わった。
    その頃、入院患者はアメーバ赤痢、肺結核、盲腸といった内科患者が多く、学徒たちの仕事は専ら大便、小便の世話だった。寝台は松の丸太を枠に床は竹を編んで作った粗末な二段ベッド。
  • 4月中旬、内科の患者は原隊復帰を命じられ、いなくなり負傷兵が多くなる。
  • 5月の雨期には壕の通路は三十センチくらいの雨水が溜まっていた。
  • 傷口からウジをかき出し膿盆に受ける。
  • 負傷兵が増え、三交代の勤務が二十四時間体制に変わる。
  • 壕の入り口には番兵がいて敵に発見されないように出入りは厳重だった。『行け!』『よし!』
  • み号剤‥‥‥暗夜でも視力が利くという薬。甘いのでおやつ代わりだった。空き瓶はランプとして使用した。手作りランプはススがひどく、顔は真っ黒になった。
  • 手術は連日、日が暮れてから明け方まで休みなく続けられた。煮沸消毒などの煙が米軍に発見されないため。
  • 手術室は6畳くらいで軍医が執刀して衛生兵2人、看護婦2、3人、それに学徒2、3人で手術をした。学徒たちはカーキ色のローソクを指の間に挟んで負傷箇所を照らした。切断した手足はカンパンの罐に入れ、壕の外に埋めた。
  • 艦砲は遠い所に落ちる時はピュー、ピュー、バァーンで、すぐ近くに落ちる時はバァーンだけ。小銃は遠い所はカタカタカタ‥‥‥、プスッ、プスッという時は至近弾。
  • 6月3日、新城分院は解散となり富盛の野戦病院に移る。
  • 6月4日、富盛野戦病院は解散。軍医や衛生兵、看護婦は後方に撤退、傷病兵のうち歩ける者はすべて壕を出る事、学徒は各自で行動して知念半島へ脱出せよと言い渡される。俸給として百円が皆に支給される。外に米、鰹節、カンパン6袋、粉味噌、粉醤油なども配られた。この日まで白梅隊の犠牲者はいなかった。
  • 6月5日、垣花初代、真栄田ミヨ子、平良百合子、比嘉光子ら11人は南部を目指して逃避行を続けた。富盛→真栄平→真壁の民家で休んでいると米田軍曹が駆け込んで来る。米田軍曹は国吉の壕に大嶺三枝子や上原春江がいるから来るように誘われるが断る。軍曹と別れ、日中はキビ畑や雑木の茂みに隠れ、村の周辺をグルグル回っていた。そんな時、患者だった西村上等兵と出会い、彼に連れられて南の波平という村に入った。しかし、どの壕にも余裕はなく、山の岩の間を木の葉で擬装して、その透き間に潜り込む。西村上等兵の連れ高橋伍長もいた。
    突然、空中で破片が飛び散る流散弾にやられ、与那覇文は胸をやられ、平良百合子は腹部に盲管、比嘉光子は大腿部がはち切れていた。無傷は二人だけだった。高橋伍長も足をやられた。与那覇文は胸に1センチぐらいの穴があき咳をするたびに血痰を吐いた。高橋伍長は西村上等兵に殺してくれと頼んでいたが、やがて息を引き取った。
    夜になり戸板に与那覇文と平良百合子を乗せて病院壕を捜した。ようやく、糸洲の山第二病院(山三四八七部隊)にたどり着いた。糸洲の病院には東風平で初年兵教育を共に受けた私立積徳高女の学徒が豊見城の病院から後退していた。与那覇文は病院で亡くなり、動けない平良百合子を病院に預け、9人は壕を出た。6月22日頃、摩文仁の丘にたどり着く。
  • 6月9日、大嶺美枝子外9名が国吉の壕にたどり着く。その夜、美枝子は戦死する。
  • 国吉の壕は上の壕と下の壕があり、治療は下の壕、収容は上の壕と分け、白梅隊員16名が負傷兵たちの看護に当たった。
  • 6月18日から艦砲と砲弾が雨のように降り注ぐ。
  • 6月21日、下の壕が馬乗りされる。下の壕にいた高良ハツ、上原ハツ、安仁屋俊子、玉那覇スミ、上原春江、5人が戦死。
  • 下の壕に続き、上の壕も馬乗りされる。上の壕には屋嘉敏子、安森信子、上原テル子、上原富子、津嘉山ツル子、金城政子、6人が息をひそめていた。突然、女の人の声がスピーカーから『出てらっしゃい』と聞こえてくる。艦砲がやみ、アメリカ兵の声も聞こえてくる。手榴弾が投げ込まれ、入り口近くにいた約10人の兵がやられる。
    手榴弾の次に火焔放射器。一瞬、火柱が横になって壕を走った。屋嘉敏子が背にまともに浴びて倒れる。その奥にいた津嘉山ツル子は足を、金城政子は首と胸に火傷を負う。共にいた山三四八六部隊の矢野兵長と鈴木上等兵が銃で自殺する。





真玉橋麗子

第四内務班(班長は米田軍曹)所属。体を壊してすぐに除隊。

金城政子 那覇中学の前で文房具屋を営む。国吉の病院壕《上の壕》で火炎放射機にやられ負傷し米軍の捕虜となる。一家6人を失う。大嶺美枝子を弔う。
崎間政子

20年5月、富盛の第一野戦病院から約3岐路北東の新城分院に級友5人と共に派遣される。

親里智子

新城分院に派遣される。

真栄田ミヨ子

富盛の野戦病院の上の壕に勤務。衛生伍長と呼ばれる。

垣花初代

富盛の野戦病院の上の壕に勤務。

平良百合子 腹部に盲管銃創を負い、友と別れてただ一人、糸洲の第二野戦病院に残され、8月30日まで80日間、一度も空を見ることなく壕の中で過ごす。
知念村の捕虜収容所で約1カ月過ごし、父に迎えられて大宜味村に帰る。
津嘉山ツル子 国吉の《上の壕》で軽い火傷を負う。
金城幸子

国吉の壕にいたが米田軍曹ら説得され、近くに避難していた父親と行動を共にする。

宮城須美子

オルガンが得意。上原春江と仲良し。解散の時、塩浜道子から服を貰う。

大嶺美枝子 解散後、級友9人と共に壕を出る。新垣→真栄平→真壁→国吉。
6月9日夜、白梅の塔前の茅葺き小屋で砲撃にやられて死亡。白梅隊最初の犠牲者。
真ん丸い顔で笑い出すと止まらなかった。
上原春江 白梅の塔の建つ壕で4人の友と戦死。
大柄で、明るく朗らかな性格だった。声が大きくゼスチャアたっぷりに話し、お茶目で甘えん坊。
ハワイから引き上げて来た二世で英語が達者。音楽やスポーツも得意。
ブラスバンド部員でクラリネットを吹いていた。歌がうまくピアノも弾いた。軍歌のほかに『オーソレミオ』『誰か故郷を想わざる』『ふるさと』などを歌った春江の声が生き残った級友の耳に今もはっきりと残っている。
陸上部の沖縄県代表として明治神宮国民錬成大会に遠征する。陸上万能選手の体格美人で、学校内だけでなく男子中学生の間でも有名で非常に人気があった。
解散後、誰とどこを通って国吉に来たのかはわからない。
高良ハツ

白梅の塔の建つ壕で4人の友と戦死。昭和16年1月、一家が移住していたフィリピンから一人、沖縄に戻る。

玉那覇スミ

白梅の塔の建つ壕で4人の友と戦死。内気で静かな子。一家5人全員が死亡。

安仁屋俊子 白梅の塔の建つ壕で4人の友と戦死。教室ではいつも前から2列目だった。おとなしかった。父親は17年夏、徴用でジャワに赴任。
上原テル子

国吉の上の壕で米俵の上で寝ている時、やられて戦死。
アメーバ赤痢がひどく、壕の食料置き場で寝たきりだった。富盛の野戦病院で罹り、解散後、金城政子に連れられて上の壕にたどり着く。土砂降りの中を歩いたため四十度の熱があり咳き込んでいた。
南米のペルーの移住先から日本の教育を受けるために帰国した。

安森信子 国吉の上の壕で上原テル子のそばて米俵の上に寝ている所をやられて戦死。アメーバ赤痢に罹り高熱に苦しみ寝たきりだった。
信子は、当時、那覇を起点に北は嘉手納、南は糸満、東は与那原まで通っていた軽便鉄道で嘉手納から通学していた。学校から一番遠かった。朝7時の汽車に乗ったが、しばしば故障して立ち往生、息せききって教室に駆け込んだ。空襲で鉄道が動かなくなってからは徒歩で20キロ余りを通った。途中まで一緒になる国吉(現武島)輝子と学校が終わると、物も言わず二人で早足で家を目指した。
綺麗な声でコーラス部員。
長嶺房子

摩文仁で戦死。桑江春と宮城すみ子と3人で摩文仁の岩陰に隠れていたが艦砲にやられ3人で身を伏せたが左端の房子だけが直撃を受け即死だった。
背が高く、眉が濃く、目鼻立ちのくっきりとし娘だった。おしゃべりは好きではなく、いつも静かにしていた。富盛の野戦病院でアメーバ赤痢に罹り、下の世話をしてくれる級友にすまない、ごめんねと繰り返した。宝物は母から貰った櫛で寝る前に必ず髪をすいていた。

屋嘉敏子

国吉の上の壕で火傷を負い、宜野座の米軍病院に収容され、娘を捜し回っていた父親と会い、母親のいる北部西海岸の羽地に連れて行かれる。12歳の妹、澄子は姉の姿に息を飲む。
身長1メートル60センチ、体重60キロ、短棒投げの競技で県の記録を持っていた敏子は引き締まった堂々たる体でB29とあだ名されていた。日赤看護婦になるのが夢だった。
一家は十・十空襲の後、北部に疎開したが、敏子は「学校のことが心配だ。それに卒業証書を貰わないと仕事に就くのも困る」と母親を説き伏せ那覇に戻る。看護隊に入隊した後、一緒にいた父親は北部に戻る。
年末にマラリアに罹り体力が消耗し、昭和21年7月27日死亡。

島袋陽子

友達の方から話しかけて初めて口を開く娘だった。体は丈夫ではなく富盛でアメーバ赤痢に罹る。
解散の後、どうやって生き延びたのか、沖縄の戦争が終わって1カ月後の7月、知念村にいた父の友人、宮城能造を訪ねて来る。衰弱で口もきけなかった。なぜか制服を着ていて、かすかに「島尻から来たの」と言う。栄養失調のまま、一週間後に亡くなった。
生きて家族に会えたのは陽子と屋嘉敏子の二人だけ。

上地美代子 ブラスバント部でピッコロを吹いていた。ハキハキした勝ち気な娘だった。
色白で髪は茶色、頬は桃色でお化粧したみたいに綺麗だった。今ならミス○○と言われるような美人。
男勝りの気性で体格がよく、薙刀や短距離が得意。クラスでも人気者で商業学校の男生徒にも騒がれていた。お嫁の話もあっちこっちからあった。卒業すれば司令部に就職が決まっていた。父親は戦時中、琉球新報社に務めていた。
富盛の野戦病院から東風平の分院に派遣される。米田軍曹に引率され、禰覇幸子、金城愛子、上原ハツ、金城幸子と一緒だった。しかし、すぐに東風平分院は閉鎖され、富盛に戻った5人は解散後も行動を共にした。この5人に喜久里栄子が加わり6人で壕を出る。途中、上原ハツがはぐれ5人になる。
新垣で禰覇幸子と金城幸子が別行動をとり村を出て行った。美代子は喜久里栄子、金城愛子と新垣に残ったがまもなく3人とも戦死した。
美代子はアメーバ赤痢に罹り、夕方、壕の外に出て腹部盲管創をうけ、2、3日後に亡くなった。
金城愛子と喜久里栄子は国頭突破に加わり、途中で米軍に発見され集中射撃を浴び、一人だけ怪我をしたが、二人とも手榴弾で自決した。
上原ハツ 白梅の塔の建つ壕で4人の友と戦死。
いつもニコニコ、賑やかにはしゃぐ子だった。小柄、色白、目がくっきり、誰にでも可愛がられた。夜盲症だったが友の手を借り壁を手探りしながら頑張った。
富盛の野戦病院を出た後、闇の中で友とはぐれ落伍するが、何とか、友のいる国吉の壕にたどり着く。
禰覇幸子

新城の壕で米田軍曹と共に戦死。
栗色の髪、目が大きく、口元が小さくしまっていた。当時女学生の間で圧倒的な人気のあった画家、中原淳一が描く美少女にどこか似ていた。小柄で愛らしくハキハキした機敏な娘だった。
富盛の野戦病院では金城幸子と共に鬼軍曹と呼ばれた米田軍曹に特別に目をかけられる。金城幸子と急速に仲良くなり、いつも一緒に行動した。
新城の分院に続いて東風平にも分院ができ、禰覇幸子、金城幸子、上地美代子、上原ハツ、金城愛子の5人が、米田軍曹に率いられて東風平に移る。しかし、この分院はまもなく閉鎖され、全員、また富盛に戻った。
6月4日の解散後、この5人に喜久里栄子が加わり、壕を出る。上原ハツが途中ではぐれる。真栄平から新垣に入り、そこにいた友軍部隊に炊事でもさせてくれと頼み、食事をする事ができた。
禰覇と金城は、ほかの3人とは別の壕に入ったが男ばかりの雰囲気を恐れ、一日いただけで新垣を出る。禰覇と金城は国吉にいるという山三四八六部隊を探して歩いた。国吉の避難民の中には金城の父や親戚もいたが合流せずに、国吉の下の壕に行き友たちと再会する。米田軍曹もそこにいた。

喜久里栄子

久米島出身の真面目な子。富盛の第一野戦病院が解散してから親友の金城愛子と一緒に南部へ向かうが負傷して歩けない愛子を背負っていた。世話好きで頑張り屋。二人は伊敷という村で戦死。

金城愛子

伊敷で戦死。喜久里栄子は親友で通学も一緒、背丈も一緒だった。

仲村渠幸子 歌と踊りが好き。目鼻立ちのはっきりした色の白い娘。髪を結いジーファーと呼ばれる簪を刺して琉装すると典型的な琉球美人になった。うなじが透き通るように白く、語りかけるときの目元が綺麗で、その琉装姿は絵画の先生、名渡山愛順のモデルにもなった。気性は男勝り。
防衛隊にとられていた父親が戦死したと知ったその夜、仇を討ってやると軍服を着てハチマキをしめ、斬り込みに行く石部隊の兵に混じった。
嘉数幸子 どこでどんなふうにして亡くなったかわからず。運天よし子と仲良しだった。小柄で癖のある縮れ毛、目が大きかった。家は泊にあった。
富盛の野戦病院に配属されるが、すぐに除隊。家族は国頭に疎開していて、祖母が与那原にいたので、そこに行き、球部隊で働く。具志頭で戦死したと言われている。
又吉ヒロ子 富盛の野戦病院壕に着くとすぐ除隊。一緒に除隊になった真玉橋麗子と諸見里シズ子と一緒にヒロ子の親がいるはずの宜野湾に行く。家族は金武に向かったと聞き、金武に向かう。金武に着き、ヒロ子は母親を捜しに行き機銃掃射にやられる。
新屋敏子 昭和191211日夕、期末試験を終え、具志頭の家に帰るため、軽便鉄道糸満線(那覇−糸満)を走っていた軍用列車に乗った。5時30分、稲嶺駅近くで積んでいた弾薬が爆発、跡形もなく死亡。
農家育ちで二高女のお嬢様とは違い、気取りのない純朴な子だった。ブラスバント部員でトランペットを吹いていた。当時、ブラスバントは二高女しかなく、県の行事には必ず参加した。
比嘉ハツ 翁長利恵子と共に読谷村に生まれ、那覇市内の下宿で一緒に暮らす。十・十空襲の後は下宿を引き払い読谷に帰り、たまたまトラックが拾えれば学校に行き、陣地構築などに出掛けた。
20年3月、同期生が東風平の看護教育隊に入隊すると聞き駆けつける。富盛の野戦病院に入隊するが、利恵子と共に除隊する。壕を出て運よくトラックに乗せて貰い夜明けに読谷に着く。二人の家族は既に北部に疎開していていなかった。利恵子は家族を追って北部に向かうが、ハツは村に駐屯していた球部隊の残留兵と共に南に向かった。
屋宜文子

昭和191211日夕、期末試験を終え、具志頭の家に帰るため、軽便鉄道糸満線(那覇−糸満)を走っていた軍用列車に乗った。
5時30分、稲嶺駅近くで積んでいた弾薬が爆発、跡形もなく死亡。

上江須須美子

久米島出身の村でも評判の色白美人。十・十空襲までは那覇の祖母の家から通学していたが、学校が焼けてからは久米島に戻っていた。
卒業証書が欲しくて20年2月6日朝、久米島を『カシン丸』という小さな客船で那覇に向かう。『カシン丸』は昼過ぎ、久米島の真泊を出港、船は学生優先で那覇の中学、高女生ら10人と一般の人約20人が乗っていた。須美子の供として県立中2年の弟、盛文も乗っていた。2時頃、米軍機に撃沈される。船長ただ一人が泳いで助かった。

上原政子

背のすらりとした美人。色は少し黒かったが目鼻立ちのはっきりした娘だった。コーラス部員。
19年8月、疎開船がやられ祖父母と共に亡くなる。熊本の税務署に務める父親の所に向かう途中だった。

塩浜道子 黒く潤んだ大きな瞳が悲しげな美しい娘だった。気立てが優しくみんなに好かれていた。儀間和子と仲がよかった。
3月6日、第二高女4年生が東風平に入隊した時、国頭に疎開していたが、屋嘉敏子と共に入隊しようと戻って来る。富盛の壕を出る時、宮城須美子に一緒に行こうと誘われるが断り、先輩の大城看護婦と行動を共にする。どこでとんなふうに亡くなったのかわからず。




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