沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲




創作ノート



太平洋戦争下の学校生活




岡野薫子著『太平洋戦争下の学校生活』より(著者は昭和4年生まれ)




  • 昭和4年は世界的な大恐慌の年で巷に失業者があふれていた。『大学は出たけれど』の言葉が流行。
  • 昭和6年9月、満州事変勃発。日本軍は満州各地を占領。ラジオからは『昭和の子供』の歌がよく流れていた。
  • 昭和8年1223日、天皇家に初めての男子誕生。国中が喜びに沸き、旗行列や提灯行列が各地で行われる。
  • 昭和8年、シャーリー・テムプル主演の映画が流行る。ヨーヨーが流行。
  • 昭和10年4月、小学校入学。新しい赤いランドセルに上履き用の白い運動靴を入れた草履袋。一年生は全員、胸の所に折り畳んだ白いハンカチをサクラの印のついた安全ピンで止めていた。ハンカチには組名と名前が書いてあった。各クラスは男女別で1組と2組が男子、3組と4組が女子。男子は殆ど丸坊主で坊ちゃん刈りの子(いい暮らしの子)は数えるほどしかいなかった。
  • 教科書は昭和8年改訂のいわゆるサクラ本。
  • 当時の遊びは『戦争ごっこ(兵隊ごっこ)』『石けり』『縄跳び』『めんこ』『影踏み』『鬼ごっこ』『かくれんぼ』『馬跳び』『陣取り』『ゴム跳び』『シャボン玉』。ゴム跳びのゴムは輪ゴムをつないで作った。
  • 小学生は地理の時間に大きな世界地図の掛軸を見せられ、赤く色別された部分が日本の領土である事を教えられた。赤い部分はどんどん広げられていく筈であり、その事を子供たちは誇らしい気持ちで受け止めていた。
  • 少女雑誌には『戦局地図』とか『抗戦区域図』が載っていた。その脇にには『日夜お国のために奮闘していられる兵隊さんに心から感謝を捧げながらごらん下さい』と注がしてあった。
  • 日本は『日出づる国』であり、万世一系の皇祚をふめる天皇の統治したまう世界に比類なき国だと信じていた。
  • 天皇は現神(あきつかみ)であり、現人神(あらひとがみ)であった。勿体なくも人の姿をしてこの世に現れた神なのだと教師から教えられ、そう信じた。
  • 『桃太郎』は学芸会でもよく劇になった。
  • 金鵄の神話は国語読本、修身、国史、唱歌で扱われる代表的なものだった。
  • 年賀絵葉書には振り袖の女の子と中国服の女の子が一緒にいる絵柄。日本兵を描いた年賀絵葉書には『オメデトウ』の代わりに『大日本万々歳、大勝利』とあった。
  • 低学年の工作に『豆細工』があり、エンドウ豆に竹ヒゴを突き刺してつないで乗り物や動物の形を作った。授業前に小使いさんがバケツに一杯、エンドウ豆を煮たのを運んで来た。豆が乾かないように水に浸してあった。
  • 当時流行っていたフランス人形は仰向けに寝かすと『ママー』と泣いて目を閉じ、長い睫を伏せた寝顔が可愛かった。
  • 縁日には威勢のいいバナナ売り、大きな刀を抜いて見せるガマの油売り、蛍や金魚、ひよこの店、秋になると鈴虫やスイッチョに変わる。塗り絵売りの前はいつも女の子が群がっていた。その頃の少女たちには『たけし』のサインの美人画が人気あった。
  • 音楽好きな父は自分で組み立てた電蓄でクラシック・レコードを聴いていた。クラシックの他に『赤城の子守歌』『お夏清十郎』『野崎小唄』『国境の町』などもあった。
  • 『カモメの水兵さん』『雛祭り』など童謡レコードのほか、物語レコードというのもあって、『茶目子さんの一日』とか『のらくろ上等兵』のレコードがお気に入りだった。
  • 田河水泡の『のらくろ』は昭和6年1月から十年間も『少年倶楽部』に連載された。
  • 昭和11年、『日本』という国号が『大日本帝国』に変わる。大日本の読み方について先生は『ダイニホンではない。ダイニッポンです』と繰り返し教えた。他に『神国』『皇国』『神州』『大八洲』『日出づる国』といった呼び方もあった。神国の兵隊は当然、神兵であり、神国の歴史は神話であった。
  • 五年生からは『国史』の科目が加わる。
  • 天皇は常に軍服を着た姿の写真で、陸海軍の最高統率者は天皇、即ち大元帥陛下であり、日本の軍隊は『皇軍』と呼ばれた。当時、大元帥陛下として欠くことのできない行事の一つは、陸海軍将兵の閲兵式だった。陸軍将兵に対する御大礼大観兵式には『陸軍大元帥』の正装軍服で、海軍艦船の御大礼観艦式には『海軍大元帥』の正装軍服で天皇は式に臨んだ。
  • 小学校では『四大節』といって、紀元節、天長節(4月29日)、明治節、1月1日の国の行事が取り入れられ、その儀式に子供達が参加する事が義務づけられていた。
  • 国家『君が代』と式歌『天長節』『明治節』『紀元節』そして『出征兵士を送る歌』
  • 1月1日は学校に集合して元旦の歌『1月1日』を歌った。歌い終わるとじきに解散になり、菊の御紋を型どった紅白の落雁のお菓子を戴いて家に帰った。あちこちの路地で羽根突き、原っぱで凧揚げ。
  • 昭和12年7月7日、日中戦争勃発。『兵隊さんよありがとう』を元気よく歌う。出征兵士の見送りが頻繁になり、日の丸の紙の小旗を教室で作り、それを皆と一緒に打ち振るのは面白かった。『露営の歌』の一番と『日本陸軍』を歌って見送った。日本の兵隊さんが悪い支那兵をやっつけに行くのだという単純な考えしか子供の頭には浮かばなかった。
  • 女の子がいじめられた腹いせに『何よ、朝鮮人』と叫ぶのを聞いた事もあった。言われた方は猛然と追いかけたが、その子は朝鮮人ではなかった。
  • 昭和121213日、日本軍が南京を占領。日本国内はまるでお祭り騒ぎになる。商店街に祝賀アーチが立てられ、昼は旗行列、夜は提灯行列が行われた。
  • 時々、紙芝居がやって来た。拍子木が聞こえると子供たちは走って行った。
  • 昭和13年、『愛国行進曲』が100万枚突破の大ヒット。旗行列の時に歌うのも『愛国行進曲』、足並み揃えての行進でも『愛国行進曲』を歌った。
  • 小学校4年の一楽器から学業成績が従来の甲乙判定から点数表記に変わった。
  • 五年生から習う『地理』では『大日本帝国』の行政区画の説明に、本州・四国・九州及びこれに属する島々を3府43県に分け、これを治めるため府には府庁、県には県庁を置いてある。その他、北海道本島・千島列島を北海道として、ここに北海道庁を置き、樺太には樺太庁、朝鮮・台湾にはそれぞれ総督府が置いてある。我が国にはこの他に満州から租借している関東州がある。また委任統治地である南洋群島がある。関東州を治めるために関東州庁、南洋群島を治めるために南洋庁が置いてある、と書いてあり、北海道・本州・四国・九州を内地と呼び、朝鮮・台湾・満州を外地と呼んで区別していた。
  • 昭和13年の公開映画は『オーケストラの少女』『モダン・タイムズ』『スタア誕生』『ジェニイの家』などが話題を呼んだ。
  • 銀座の街角に千人針を持って立つ人が目に付くようになった。
  • 戦場の兵士に送る慰問袋の品々がデパートの売り場に並ぶようになった。缶詰類には軍隊飴とか勝栗とか、慰問袋用の商品名がつけられていた。
  • 講談社絵本は毎月1日、5日、十日、十五日の4回に分けて発行された。『孝女白菊』『孝子万寿姫』『牛若丸』『隅若丸』『こがね丸』等々、絵本とはいいながら厚くて読みでがあった。本文のほかに特別読物として『偉い人の子供時代』が載っていた。偉い人とは東郷元帥、ヒトラー、紫式部、伊藤博文、ビスマルク、西郷隆盛、松平信綱、カーネギー、斎藤実(海軍大臣、朝鮮総督を経て後に総理大臣)等だった。
  • 昭和13年5月19日、日本軍徐州占領。1027日、日本軍武漢三鎮を占領。鈴を鳴らして号外屋が走り、国内は勝ち戦の報に沸いた。4年生の著者は初めて提灯行列に加わった。
  • 学芸会では級友5人と『日の丸行進曲』を日の丸の小旗を両手に持って踊った。
  • 出征兵士の見送りに小学生がぞろぞろついて行く事は特別な時(先生の応召)以外に見られなくなる。それだけ出征は日常的になって来ていた。普通の出征は家族と近所の人達の見送りだけで、後は割烹着にたすきを掛けた国防婦人会の人達が線路際に並んで日の丸の小旗を振る程度になった。
  • 昭和13年、洋装とパーマネントが流行。翌年6月、パーマネントは禁止される。生まれつきの縮れっ毛の子が『パーマネントはやめましょう』と言われていじめられる。
  • 5年生になると歴代天皇の名を暗記させられた。
  • 体育の課目に重点が置かれ、運動の得意な子、中でも大柄な体格のよい子がクラスでも俄に脚光を浴びるようになる。そうした子は教室の授業でものびのびと発言するようになった。
  • 家で神棚を祀るように先生に言われる。
  • 現在なら知恵遅れの学級に入りそうな子もクラスに1人いた。
  • 子供にとって教師は親以上に絶対的な存在だった。家で親には言いたい事が言えても『先生に言いますからね』の一言で黙るほど教師の力は強かった。逆に『先生はこう言っていた』と言えば、たとえ反対意見でも親は黙った。
  • 4年生で『橘中佐』『広瀬中佐』『靖国神社』の唱歌を習った。
  • 七五三の祝いの晴着まで男の子は海軍大将、陸軍大将、女の子は従軍看護婦の服が流行。
  • 父親が戦死した子供は『靖国の遺児』とよばれ特に表彰が行われた。
  • 『肉弾三勇士』は雑誌や絵本に取り上げられ、運動会の競技種目になり、ついには猿回しの演目にも登場した。
  • 『日本人なら、ぜいたくはできないはずだ!』のポスターが街で目につくようになり、雑誌の見返しや扉にも『日本の辞書からぜいたくの字句を消しませう!』とあった。『ぜいたくはできないはずだ!』はいつか『ぜいたくは敵だ!』に変わった。
  • 昭和1410月、隣組制度が制定される。配給品の知らせや防空演習の日時は回覧板が知らせた。
  • 昭和15年から様々な日常の必需品の配給統制が始まった。
  • どこの家でも玄関先に防火用の火叩き、とび口、バケツ、砂袋などを置いていた。もんぺ姿の主婦たちは隣組長の号令で『右向け右!』『右へならえ!』『廻れ右!』などやらされた後、バケツリレーで目標物に水を掛けた。
  • 貸本屋の講談本、『狐葛の葉』『鉢の木』『三国志』『田宮坊太郎』『荒木又右エ門』『里見八犬伝』などを片端から読んだ。母が買ってくれるのは野口英世や中江藤樹、乃木希典などの偉人伝だった。
  • 夏休みには野外活動写真大会を催す事もあり、大人や子供が大勢校庭に集まって見た。テレビのなかった時代、『活動につれてってあげましょうか』といわれると子供は大喜びした。
  • 昭和13年の活動写真、日活『忠臣蔵』坂東妻三郎主演、日活『路傍の石』小杉勇主演、東宝『綴方教室』高峰秀子主演、東宝『鶴八鶴次郎』長谷川一夫主演、新興キネマ『佐賀怪猫伝』大友柳太郎主演、新興キネマ『剣豪荒木又右衛門』市川右太衛門主演、松竹『愛染かつら』田中絹代・上原謙主演、新興キネマ『狸御殿』高山広子主演等。
  • 昭和14年の活動写真、松竹『残菊物語』花柳章太郎主演、松竹『暖流』高峰三枝子主演、日活『土』小杉勇主演、日活『土と兵隊』小杉勇主演等。
  • 昭和15年の活動写真、日活『宮本武蔵』片岡千恵蔵主演、日活『風の又三郎』片山明彦主演、東宝『支那の夜』長谷川一夫・李香蘭主演等。『支那の夜』は空前のヒット。
  • 小学校最後の年は紀元二千六百年の奉祝行事と重なって学校では来る日も来る日も分裂行進の練習に明け暮れた。この頃は何かというと行進で『愛国行進曲』を歌いながら行進をさせられた。4人づつ隊列を組んで一糸乱れぬ行進をした。『紀元二千六百年』の歌も歌いながら行進した。
  • 1110日の式典では軍楽隊による勇壮なる『大歓喜』『紀元二千六百年頌歌行進曲』『奉祝賛歌』が吹奏された。学徒の斉唱『紀元二千六百年』、小学校中学校生徒の分裂行進、旗行列行進、隣組を動員しての旗行列、神輿行列、軍楽隊の大行進、花電車の運転などが行われ、夜は提灯行列が道を埋め尽くした。全国民に赤飯用のもち米の特別配給が行われた。
  • 小学校では記念式典のほか、運動会、学芸会、展覧会、音楽会が開かれ、記念植樹なども行われた。運動会の女子の障害物競走では、この年新たに『防空演習』の種目が加わった。走る途中でモンペを拾ってはき、国防婦人会のたすきを掛け、バケツを持って決勝点に走って行くというものだった。男子の方では鉄かぶとをかぶり、3人1組で丸太を抱えて走る『肉弾三勇士』があった。
  • いよいよ神がかってきて『神国』という言葉がよく使われるようになり、兵隊は『神兵』と呼ばれた。
  • この年から中等学校入学の際の学科試験は行われなくなり、試験は内申書と面接による事になった。
  • この頃から『敵性語使用禁止』で英語は使えなくなる。
  • 昭和16年4月から尋常小学校は国民学校に変わる。
  • 昭和16年4月、著者は調布高等女学校に入学する。
  • 新しい教科書はずっしりと重く、クロス貼りの表紙だった。この年から各女学校の校服が廃止され、日本中一律に女学生の制服がへちま衿の上着にフレアスカートに定められた。
  • 靴に不自由な時代がやって来て牛革は手に入りにくくなって来て、下駄を履いて来る生徒もいた。
  • 月2回、土曜日に農場実習があった。
  • 器械体操の代わりに『弓道』『薙刀』になった。
  • この頃、『歩くうた』が流行り、体力増強のため『歩け歩け運動』が提唱される。
  • 結婚適齢期の青年が戦地に行ってしまい、相手がないまま婚期が遅れる娘が増えて来た。
  • 一年生の7月、初めて勤労奉仕に参加し、やっと一人前の大人の仲間入りができたと喜ぶ。
  • 昭和16年7月7日、支那事変4周年記念式典が学校で行われる。
  • 学校で毎年行なって来た臨海林間学校は廃止となる。
  • 八百屋の店先で野菜が不足するようになって来た。食糧不足はまず野菜から始まった。
  • 7月28日、学校で全校生徒に向けて『空襲について』の話があった。
  • ちり紙は病人用に配給され、普通の人は新聞を四角に切って使っていた。
  • 物資は不足していても、今は非常時なのだからと言い聞かせ、それを不満とは思わなかった。下校時に友達とキュウリやカボチャのはみ出た大きな風呂敷包みを抱えて帰るのだって、お菓子を買うために行列に並ぶのだって、それなりに楽しかった。
  • 当時の愛読書は雑誌の『少女の友』『少女倶楽部』、本の方は一年の時は吉屋信子の少年少女小説『花物語』や『グリム童話』、二年以降になると『日本文学全集』の泉鏡花、夏目漱石、吉川英治、徳富蘆花、国木田独歩、森鴎外、島崎藤村、有島武郎の作品、ヘルマン・ヘッセやアンドレ・ジイド、シャーロック・ホームズ、『キュリー夫人』『パスツール伝』『ファーブル昆虫記』『シートン動物記』『黄河の水』など。テレビがなかった時代の少女たちは皆、かなりの読書家だった。
  • 当時、結核で死亡する少女が多かった。
  • 昭和1612月8日、日本は米国・英国に宣戦布告(大東亜戦争始まる)する。
  • 昭和17年1月8日、第一回大詔奉戴日、日の丸弁当を持参。
  • 2月1日より点数制の衣料切符が配給される。
  • 4月18日、B25が東京、名古屋、神戸等を空襲する。防火訓練が学校、町内で頻繁に行われるようになる。
  • 6月5日、ミッドウェー大海戦は無敵を誇った日本海軍の初めての敗北で、これを境に日本側の敗戦の色は濃くなって行った。
  • 10月には軍官民一体による総合防火訓練も行われる。爆風を防ぐには腹ばいになり、小指で鼻の孔をふさぎ、親指で耳の孔をふさぎ、後の3本の指で目を押さえる。口だけはあけて息をする。爆風で目玉が飛び出す事もあるからだと聞かされた。
  • この頃から講堂に全校生徒が集まった時、『海行かば』を斉唱するようになった。『君が代』の次にこれを歌うと、気持ちが昂揚して来て、天皇陛下のためなら命を投げ出しても惜しくない気持ちにさせられた。『海行かば』は国歌に継ぐ国民の歌として、大政翼賛会から指定され、各種会合毎に斉唱するよう通達が出された。隣組でも歌うように指示された。国民全体の歓びの歌としては万葉集の『みたみわれ』が後(昭和18年8月)に作曲され歌われるようになった。
  • 昭和17年の年の暮れは勝ち戦だと言いながら、様々な矛盾が表面に表れて来た。当時の新聞は検閲で報道の自由が奪われたと言われるが、それでさえ、日本が危機に瀕している事はかくしようもなかった。
  • 昭和17年の大晦日は除夜の鐘もなかった。鐘は軍艦や戦車の材料として回収された。
  • 学校に海軍士官がやって来て海軍式の軍事教練をやらされた事もあった。
  • 昭和18年4月、日常生活では石鹸も手に入らなくなり、洗髪用のシャンプーで代用させたり石鹸屑を袋に入れて使ったりしていた。赤ちゃん用の浴用石鹸だけが月に一回配給された。
  • この頃から警戒警報が発令されるようになった。警報が出ている間、通学の時だったら防空服を持って行くか着て行くかしなければならなかった。夜間は灯火管制で室内の明かりが外に洩れないよう電灯のまわりに黒い布をおろした。窓ガラスには爆風で割れたガラスが飛び散らないように紙テープを貼り付けてあった。
  • 昭和18年5月12日夜の警戒警報は初めてサイレンによるものだった。13日は空にたくさんの軽気球が浮かんでいて、ものものしかった。軽気球は敵機の侵入を妨害するためのものだった。
  • 5月29日、アッツ島の玉砕が報道される。玉砕という言葉が初めて使われる。『アッツ島血戦勇士顕彰国民歌』ができ、学校で教えられたわけでもないのに、忽ち覚えて休み時間に歌っていた。
  • 上級生は『流浪の民(シューマン作曲、石倉小三郎訳詞)をコーラスしていた。
  • 8月22日、キスカ島を失ってから1ケ月も経ち、やっと大本営発表が行われる。
  • 9月4日、上野動物園で空襲に備えて猛獣が毒殺される。
  • これまでは警戒警報発令中でも普通に授業が行なわれていたのが、警戒警報発令と同時に授業は一斉に中止され、中学校2年以下は直ちに帰宅。3年以上の生徒はそのまま学校に止まり防空活動の持ち場につく事が決められる。これまでは『敵機来襲』で退避する事になっていたのが、空襲警報発令と同時に退避しなければならなくなった。
  • 男の先生はカーキ色の国防服でゲートルを巻き、女の先生もモンペ姿に変わっていた。
  • 『航空決戦』という言葉が使われ、航空機に焦点が当てられ『少年飛行兵』は当時の男の子の憧れの的だった。
  • 『ああ紅の血は燃ゆる』が好きでよく歌っていた。
  • 昭和19年6月号の『少女の友』は総頁数76頁、ざら紙の5ミリ位の厚さしかなかった。表紙は田植えの少女。
  • 7月19日、7日のサイパン島全滅の報道。学校では校長の訓話の後『海行かば』の大合唱。
  • 8月になっても夏休みにはならず、通年動員。
  • 動員された工場では週に1回、昼休みに歌手が来て歌の指導をしてくれた。『轟沈』『空の神兵』『勝利の日まで』『ラバウル海軍航空隊』『加藤隼戦闘隊』等を夢中で歌った。
  • 零戦は紀元二千六百年に正式採用されたのでゼロをとって名付けた戦闘機の通称。
  • 鉢巻には『神風』の文字が中央の赤い日の丸に配して染め抜かれてあった。
  • 卒業式の歌も『蛍の光』は敵国の歌曲のため禁止、代わりにドイツの歌曲『別れの歌』を歌った。『仰げば尊し』には『台湾の果てまで‥‥‥』と新しい部分が加えられていた。




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