沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲




創作ノート

ひめゆりの塔学徒隊長の手記





西平英夫著『ひめゆりの塔 学徒隊長の手記』より




  • 西平先生は師範学校女子部の生徒主事で舎監長を兼ねていた。
  • ひめゆり学園は安里にあった。左側に沖縄師範学校女子部、右側に沖縄県立第一高等女学校の門札を掲げた校門の前には、柳に似た相思樹の並木が空を覆って繁り、南国の強い太陽を遮って気持ちのいい木陰を作っていた。
  • 昭和19年6月末、西平先生の妻と子供が奈良県の祖父母のもとへ疎開する。
  • 昭和19年7月、サイパンの状況が怪しくなると、突如、沖縄に日本軍が続々上陸し、どの学校も宿舎に徴用され、ひめゆり学園も一時、2000名の大部隊を収容したので臨時休校にり、寄宿舎では不寝番を立てて警戒する。まず、縁故のある婦女子は疎開せよというので、職員の中でも他県出身の藤野・本間らの女教師や、羽田先生の家族等が、生徒に別れの挨拶を言う間もなく荷物を取りまとめる暇もなく出発する。
    ひめゆり学園は軍医部と経理部に校舎の半分を使ってもらう事となり、早めの夏休みに入る。那覇・首里等通学可能な生徒だけで飛行場や軍陣地の構築に協力している。
    7月28日、寄宿舎では400名近い寮生のうち本島内の者は既に帰省し、わずか先島(宮古・八重山)や離島の者が4、50名程度残っているだけだった。
  • 縁故疎開に引き続き、宮崎・熊本・大分等の受け入れ先が決まり、強制疎開が開始される。老幼とそれに付帯する婦女子がまず第一に取り上げられる。これに従って一高女の生徒は相当数疎開するが師範の生徒は、転校を受け入れてくれる学校が少なく、8月中に疎開した師範生は300名中15名に過ぎなかった。
  • 昭和19年8月以前の沖縄は南北(小禄・読谷)の飛行場を除くほかは何の防御陣地はなかった。
  • 9月に新学期が始まると上京中だった野田師範学校長も帰任。
  • 8月21日、学童疎開の対馬丸が撃沈され、学童758名が死亡する。岸本先生の母親と弟妹も乗っていて亡くなる。妹の岸本ヒサ(本科1年)だけが残る。
  • 明治以来の教育の普及により40歳以下の者は立派に標準語で話せるが、40歳以上になると有識階級の一部を除いて標準語を話す事も聞く事もできなかった。
  • 一高女の50歳を過ぎた大城つるという先生は舎監をしていて、9月に子供たちを疎開させ、自身は残り生徒の指導に当たる。11月頃、子供のために生きなければならないと疎開する。
  • 10月10日の大空襲で那覇市は焼け野原となり、家を焼かれ財産を失った市民のうちから疎開する者が一時増加するが、一段落すると、敵の精鋭がフィリピンに向かい、沖縄は一息つく余裕が与えられた事もあいまって、疎開は遅々として進まなかった。
    昭和20年1月22日、二度目の大空襲があり、いよいよ沖縄危うしと感じられた頃には疎開したくても乗る船がない事情となっていた。
  • 一高女生は半数以上の者が疎開したが、師範生は本科30名、予科6名に過ぎなかった。
  • 師範学校男子部は主として首里の陣地構築に動員される。女子部と一高女は那覇周辺の高射砲陣地の構築に動員される。始めは三部制で一部は動員、一部は校内作業(避難壕掘り・食糧増産)、一部は授業、後になっても二部を動員する事以上はさせなかった。
  • 県庁は焼けなかったのに知事以下首脳はその夜のうちに嘉手名に移行してしまい10日経っても那覇に帰らなかった。食糧営団も混乱のため一週間近く配給を停止する。
  • 10月の末、沖縄全島は季節はずれの大型台風に見舞われる。
  • 1月22日の空襲で、ひめゆり学園に5個の爆弾が投下され、運動場と図書館、寄宿舎の南寮、ほぼ中央にある第三校舎がめちゃめちゃに破壊される。運動場では兵および軍属が十数名死傷する。
  • 1月には第二高女、首里高女の看護訓練が山部隊(第24師団)・石部隊(第62師団)によって開始される。
  • ひめゆり部隊は3月下旬に南風原陸軍病院で看護訓練を始める。
  • 3月22日、寄宿舎の大送別会。上間道子の浪曲『更科の別れ』。10時過ぎに停電となり解散。
  • 3月22日、敵襲来の直前、親と子が別々の船に乗り、人が乗っても荷物は残るという狂気のような混乱の中で出帆した疎開船が最後となる。
  • 3月23日の大空襲は10月10日よりもひどかった。
  • 3月23日夜、師範生約150名、一高女約50名は南風原陸軍病院に配属される。
  • 3月25日、朝から空襲が繰り返される。宿所の設営に追われる。夜になって教員に軍服と軍靴、生徒にはカーキ色の上シャツと軍靴が配給される。
  • 西岡部長は陸軍嘱託(高等官三等待遇)に任じられ第32軍参謀部勤務を命じられ、3月25日、首里の軍司令部に移る。



◇最初の編成。
学徒隊長 教授 西平英夫
本部 指揮班 教授 西平英夫 生徒、本科2年、佐久川つる他5名。
炊事班 教諭 岸本幸安 生徒、本科2年、島袋トミ他11名。
看護隊長 教授 仲宗根政善
看護隊 第一班 教授 仲宗根政善

生徒、本科1年、山里美代子他19名。

第二班 教諭 玉代勢秀文

生徒、予科3年、古波蔵満子他19名。

作業隊長 教授 与那嶺松助
作業班 第一班 教授 与那嶺松助

生徒、専攻科、 波平貞子他30名。

第二班 教諭 大城知善

生徒、本科2年、仲田ヨシ他29名。

第三班 助教授 内田文彦

生徒、本科2年、新垣キヨ他29名。

一高女看護班 教諭 徳田安信他1名

生徒一高女4年生約20名。

一高女作業班 教諭 新垣仁正他1名

生徒一高女3年生約20名。



  • 作業班は患者の輸送、衛生資材の運搬を行う。
  • 3月29日、港川方面に艦砲射撃の音を聞く。その夜、特攻隊が敵艦を攻める。
  • 3月30日夜10時、卒業式。女師卒業生専攻科  新垣みつ子以下9名。
                             本科  新垣キヨ以下72名。
                     優等賞を受ける者  佐久川つる、新里キサ子、与那城ノブ子、島袋トミ
                     特別賞を受ける者  山城芳、佐久川つる
  • 一高女の卒業生は師範に入学を許可された者を除いて軍属に転換、師範卒業生は教育要員であるからそのまま学徒として取り扱う事に決まる。後に軍属転換は取りやめとなる。
  • 尚ひろ子(尚順男爵の令嬢)も一高女3年で、南風原に駆けつけるが追い返される。当時はまだ陸軍病院は暇で学徒隊は邪魔物扱いされていて、これ以上人数を増やす事ができなかった。
  • 卒業式の翌日、式場だった三角兵舎は焼夷弾で焼かれる。
  • 4月20日頃、師範と女学校同居の24号壕が隣の23号壕とつながる。
  • 4月21日、第一外科8号壕が艦砲の直撃を受け多数の死傷者を出す。
  • 4月24日、陸軍病院は終日猛烈な集中爆撃を受ける。一歩も外に出られず終日壕に閉じ込められる。夕方、外に出ると辺りはまったく一変、松の木は吹き飛び、山は形を変え、全面の窪地は何発かの爆弾が落ちて畑も道も掘り返され、直系10メートルほどの大穴が3つも4つもあいていた。壕のすぐ上には小型爆弾が2個も落ちて径3 メートルくらいの穴が2つもあいていた。



◇新しい編成(4月24日)
本部付  教員 西平英夫・親泊千代(一高女)

生徒 班長佐久川つる他12名。

第一外科付教員 仲宗根政善・岸本幸安・新垣仁正(一高女)

生徒 班長新垣キヨ 他64名。

第二外科付教員 与那嶺松助・内田文彦

生徒 班長兼元トヨ 他40名。

第三外科付教員 玉代勢秀文

生徒 班長宮城藤子 他15名。

糸数分室付教官 大城知善

生徒 班長知念芳  他22名。

識名分室付教官 徳田安信・石垣実俊・奥里将貞(皆一高女)

生徒 一高女生徒   21名。

津嘉山経理部付教員 平良松四郎・仲栄間助八・石川良雄(皆一高女)

生徒 一高女生徒   16名。

  ㊟糸数分室は4月28日に編成される(第二外科から移動)。

   



  • 本部付生徒は本科2年生5名(うち2名は5月初旬重傷)、本科1年生4名、予科1年生3名。仕事は各壕への伝令と各壕の生徒の状況を調べる事で外回りの仕事が主だった。予科1年生の3名は離島出身で船便の都合で帰れずに寮に残った下級生だったので、伝令や飯あげ等の危険な仕事は一切させなかった。
  • 4月26日朝、予科2年生の佐久川米子が機銃攻撃を受け左脚脛部の骨を粉砕され、午後5時に死亡。学芸会で釈迦に扮し、以後、お釈迦様というあだ名がついていた。
  • 4月28日、第二外科から知念芳以下14名を間抜きして大城知善教官に託して糸数分室に送る。
  • 5月3日、友軍は首里全面の敵に対して総攻撃を敢行。夕方になると敵は北方に向かって潰走中と報じられる。
  • 5月4日、病院が猛烈な艦砲を受け、次々に壕が破壊される。第一外科の上地貞子(本科1年)と嘉数ヤス(本科1年)が犠牲となる。
  • 5月5日、渡嘉敷良子(本科2年)が脚部に負傷する。
  • 嘉数ヤスを救出する時、仲宗根政善は古釘を踏んで発熱する。
  • 5月8日、石川(本科2年)と山城(本科2年)が負傷する。
  • 5月8日、一日橋分室の壕がガス攻撃にあい、生徒3名死亡、2名重症、引率の徳田(23日死亡)、石垣(24日死亡)2教官重症。
  • 5月13日、西岡部長が首里から南風原に来る。首里から東風平恵位(師範音楽担当)と銘刈秀(附属教員)や生徒上江洲浩子などを連れて来る。西岡部長は8名の生徒を連れ糸数分室に向かう。
  • 5月13日夕刻、第三外科の島袋ノブが迫撃砲にやられて死亡。
  • 男子部との連絡に当たっていた照屋教頭や子供を抱えた内間書記らが首里から退去して来る。那覇から清原夕子(本科1年)が父に伴われて動員参加を願い出る。
  • 5月15日朝、本部に最も近い第一外科壕で嵩原芳(本科1年、首里出身)が艦砲にやられて死亡。
  • 5月18日、ロの2号に識名の梶尾軍曹が重体で入院するが死亡。
  • 5月20日、文部大臣より『職員生徒一同の決死敢闘を謝す』との電報あり。
  • ちり紙が配給されず、生徒達はノートや本を破いて使用した。
  • 患者の包帯を解くとウジがボロボロ落ち、ガーゼを剥がすと1合くらいの膿がどっと流れ出た。
  • 軍隊用語で一報患者は軽症、二報患者は重症、三報患者は危篤、四報患者は死亡者。
  • 5月24日、日本空軍特別空挺部隊が北(読谷)中(嘉手納)飛行場に強行着陸して米軍を混乱させるが全員玉砕。
  • 5月24日から雨が降り続く。
  • 5月25日、首里に出頭していた病院長が帰り、『沖縄陸軍病院は5月28日までに山城地区に転進し二千名収容の陸軍病院を開設すべし』の命を伝える。軽傷者は第一線に送り返す。独歩患者は極力自力によって転進させる。重患(2000余名)は処置すると決められる。
  • 5月25日午後8時、南部へ撤退。本部員は親泊先生がガス中毒になった真栄田、安里の2生徒を連れ、負傷した山城、石川、仲村を担架に乗せて出発。南風原→与座→途中の部落で糸数分室の一隊と合流→真栄平で第一外科の一部隊と合流→真壁で第二、第三外科と合流。
  • 5月25日、高嶺の精糖工場の水道の所で予科2年の大城ノブが艦砲にやられ死亡。
  • 伊原野は平穏そのもので集落も所々艦砲や爆撃で壊されていたが、住民も大部分、家の中で寝起きしていた。畑には作物がみのり、山々は緑に映えていた。
  • 5月27日、伊原野にも敵機が飛び、時折ではあるが砲弾も落下するようになる。
  • 6月の初め、ようやく病院壕が決まる。本部は山城集落の南端に続く松林にある、さざえの殻を土中に埋めたような形の自然壕で、およそ5、60名収容する事ができた。20メートルばかり離れた所に小川の閉口部があり、小川の潜っている松林の背後には芋畑を隔てて海岸が迫っていた。その芋畑には敵の上陸を予想して多くの地雷が埋没されていると伝えられていた。
    第一外科は元の波平(はんじゃ)の壕と本部から500メートルくらい離れた畑の中にある二つの洞窟、一つは本部の壕に似た形で、他は湯たんぽを埋めて上から注水口に通じるように縦坑をあけた形の壕だった。そこには第一外科と併せて糸数分室が収容された。
    第三外科はさらに100メートル離れた伊原の松林の中にあってサンゴ礁が陥没して出来た壷形の洞窟で、中には中央に台があって、それを回っていくつもの透き間があるという変わったものだった。そこへは識名分室も収容された。
    第二外科は街道に沿って1キロメートルばかり離れ、むしろ糸満海岸に近い糸洲にあった。しかし、それらに収容できたのは要員だけで、退避して来た患者の多くは、付近の集落や洞窟から治療に通って来るという状態だった。
  • 6月8日、山部隊の壕を出る時、女学校の生徒を連れて識名分室を訪ねて出て行ったきり帰って来なかった親泊教諭がひょっこり帰って来る。二、三日後、親泊教諭は一高女生徒を連れて第三外科壕に入る。
  • 親泊教諭の弟は二中の2年生で通信隊に入り、首里の通信隊のペトン陣地で4月29日、艦砲の直撃を受けて壕もろとも戦死していた。西平教授はその事を6月の初め、二中の通信兵から聞いて知っていたが、親泊教諭には知らせなかった。
  • 6月10日から伊原野は迫撃砲の集中攻撃にさらされる。井戸とか三差路とか人の集まる所を狙って『ヒューン、ヒューン、パン、パン、パン、パン』と来た。百メートル平方くらいの地点に4、50発同時に落下した。
  • 6月14日未明、与座岳、八重瀬岳が敵に突破されたというので軍医も衛生兵も大部分第一線へ出勤して行った。
  • 6月14日、宜保春子(予科3年)、安座間晶子(予科2年)が山城本部壕で砲弾にやられて死亡。この時、広池病院長も足首を取られ、翌日、片脚切断の処置がとられたが息を引き取る。病院は総務課長佐藤少佐が指揮を取る。居をなくした本部員は16日、第一外科と第三外科の壕に分散する事になり、じゃんけんで勝った方が第三外科にはいる。負けた方の6名は西平先生と一緒に伊原の大田壕(大田政秀の個人壕で、そこには岸本先生と第一 外科の一部が入っていた)に移る。
  • 6月15日頃、藤野一中校長が米須街道で迫撃砲にやられ第一外科にかつぎ込まれたが死亡。
  • 6月17日、第一外科壕がやられ、古波蔵満子(予科3年、第一外科治療班)、荻堂ウタ子(本科1年、糸数分室の人気者)、牧志ツル(一高女4年)が死亡、知念芳、石川は再度、神田幸子が重症を負う。
  • 6月18日正午過ぎ、解散命令が出る。糸洲の第2外科壕は敵の馬乗り攻撃を受ける。
  • 新垣キヨは首里出身で中寮の寮長を務める。
  • 6月19日、西平教授、岸本教官と行動を共にした大舛清子(予科2年)が戦死。
  • 当時の流行歌『出船』




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