沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲




創作ノート




上原貴美子婦長  香川京子著「ひめゆりたちの祈り」より




◇上原貴美子(1919.10.201945.6.20

  • 糸満に生まれる。男1人、女4人の5人兄弟。三女の貴美子と四つ下のハル子以外は皆、夭折。漁業を営んでいた父(外国まで行った)も、貴美子が5歳の時、37歳で亡くなり、母親マチと姉妹2人という女世帯の中で育つ。生家は糸満小学校のすぐ近くにあり、この町の資産家だったらしく、大きな門構えの石垣に囲まれた家だった。
    小学生時代の貴美子は勉強がよくできて、放課後に近所の子供たちを集めては、よくガジュマルの樹の下で青空教室を開いて下級生に勉強を教えていた。
    父親が亡くなった後、母親は牛乳の箱を頭に乗せて配達していた。貴美子は高等小学校を卒業した後、しばらく母校で『給仕』として勤めていた。その後、那覇の元順看護婦養成所に入り一年間勉強した後、看護婦の資格を取る。そのまま看護婦として勤める事もできたが、若いうちにもう少し勉強して置きたいと、那覇の愛生病院内の産婆(助産婦)養成所に入り、一年後に助産婦の免許を取った後、同病院の産婦人科に就職する。
    昭和19年6月、陸軍病院が看護婦を募集すると貴美子は応募する。すると、そこに宮里ツル子もいて二人とも採用される。貴美子は外科、ツル子は伝染病科に配属される。
    19
    1010日、陸軍病院は南風原に移動する。
  • 1937年(昭和12)、17歳の春、那覇の元順(げんじゅん)看護婦養成所を受験し合格する、同期に13歳の宮里ツル子がいる。貴美子の成績は同期で一番だった。卒業後、検定試験(県庁で行なった)を受け、看護婦資格を取る。
  • 昭和19年5月の動員令によって編成された『球18803部隊(沖縄陸軍病院)』は6月、那覇市内の開南中学校に開設される。貴美子の配属された外科には地元で動員された軍医が3人いた。後に第一外科となり、その頃、看護婦は17人位、軍医は10人位になる。貴美子は婦長となり11号まであった病棟を全部取り仕切っていた。どこの病棟に何人収容するか、スタッフをどこに配置するか手際よくこなして行った。
  • 3月23日、南風原国民学校は全焼、黄金森の病院壕に移る。
  • 宮里ツル子は看護婦資格を取るとすぐ、熊本の陸軍病院に就職する。2、3年後、熊本から沖縄に戻り、保健婦として働く。その時、貴美子の家に下宿する。その頃、貴美子の母親は急病で亡くなり、妹が一人残されていた。ツル子は毎日、貴美子に電話し、妹の事は心配ないと伝えた。
  • ツル子が初めて貴美子に会った時、糸満美人というのはこうものかと思うくらい綺麗な人だった。背は高くてスタイルもよくて。背丈は160cm以上は充分にあり、当時の沖縄では珍しかった。頭がよくて人柄も優しく、みんなから親しまれていた。彼女と一緒ならどんな勤務でもやる。あの人のためなら何でもやるという同僚や後輩が多かった。先生方も、彼女は手術の時の手際がいいと、いつも褒めていた。
  • 縁談数多くあったが、妹が結婚するまではできないと断っていた。
  • 貴美子は妹思いで、話す事はいつも、妹の事ばかりだった。
  • 軽便鉄道で、那覇から普天間まで2時間も掛かった。
  • 貴美子は裁縫や手芸が好きで、愛生病院の寄宿舎の向かいにあったお琴の先生の所へも通っていた。
  • 琉球舞踊もでき男踊りが得意だった。
  • 20年3月初め、ツル子は一時休職して、姉の家族と共に本部町大川へ疎開する。復職するつもりだったが戻れず、本部で終戦を迎える。ツル子は戦後、結婚して男の子2人に恵まれる。
  • 奥松文子看護婦は貴美子の事を軍医と対等、いやそれ以上だったと言う。一を聞いて十を知るという、あれだけ統率力があって働ける婦長は後にも先にも見た事がない。
  • 貴美子は毎朝、壕を回って生徒を集め訓示をした。『日本軍は必ず勝利するのだから、苦しいけれど、それまで頑張りましょう』というような事を言った。
  • 『ロの3号』にいた守下ルリ(現姓宮良、本科一年)は上原婦長の話に感動し、やらなければならないといつも思った。話を聞いて壕に戻ると、感激が残っていて、兵隊たちに婦長さんの話をした。婦長さんの真似をして『勝利の日までがんばろう』と言っていたので、ルリは兵隊たちから『勝利の日までさん』と呼ばれた。
    上原婦長は生徒たちから非常に尊敬され慕われていた。
    貴美子は各壕を回って患者さんたちを励ました。貴美子が壕の前に立つと、兵隊たちはワーッと手を叩いて『婦長が来た、婦長が来た』と言ってとても喜んだ。兵隊たちからも慕われ、もう神様みたいに思われていたんじゃないかと思う。『ウーン、ウーン』と唸ったり、あまりの痛さに生徒達に八つ当たりしていた兵隊も、婦長の顔を見た途端に静かになり、天使の姿を見るように目付きが変わった。婦長が見えただけで暗い壕の中がパアッと明るくなった。
    貴美子は白衣ではなく軍から支給されたカーキ色の半袖シャツを着ていたが、キリッとした感じに見受けられ、典型的な糸満美人だと思った。体全体に気迫がみなぎっているという感じだった。
    生徒たちにもいちいち声をかけて励ましてくれた。やらなければならないという張り詰めた義務感のような張り詰めた気持ちを持っていた。その後、ルリは第三外科に配置換えになり、上原婦長とは会えなくなった。中国戦線から転属してこられた婦長もいて、赤十字看護婦というプライドを持っているせいか非常に厳しくて、上原婦長が懐かしかった。
    私のひめゆり戦記第9刷改装
  • 4月半ば頃、包帯交換が3日に一度になり軍医が来ない時、上原婦長が代わりに診察をした。化膿している患者に麻酔なしでメスを入れ、患者が痛がって泣くと『帝国軍人がそんな弱音を吐いてどうするんですか」と気合を入れた。それを手伝った石垣節(本科一年)は、女の人でこんなに意志の強い人がいるのか、とても人間業じゃないような素晴らしさ、何か神々しいものさえ感じていた。今日は上原婦長が壕に見えると言うと兵隊たちは皆、喜んでバンザイをしていた。
  • 上地百子(予科三年)は第一外科の14号壕に配属された。14号壕は5月4日の朝、艦砲の直撃を受け、中にいた20人程の患者も生徒も全滅するが、連絡のため隣の壕に言った百子は助かる。頭は吹っ飛ぶ、手も顔もない胴体だけが壕の壁にくっついている。脳みそや肉のかけらがいっぱい散らかり、中は血だらけになっていた。
  • 第一外科は上原婦長の指揮で活動している感があった。次々と倒れる看護婦の補充、割り当て、全体の統制、死体の埋葬、診療から食事の世話など一切がほとんど婦長の指揮によった。南風原陸軍病院解散後も上原婦長は看護婦や生徒たちを激励し、艦砲の透き間をぬって各民家を巡り歩き、倒れふした兵士をねんごろにいたわっていた。
  • 南部撤退の時、糸満街道に近い実家に立ち寄り、仲里看護婦と一緒に妹を捜した。妹は無事に北部に疎開していた。
  • 6月19日、山城の丘に向かって負傷兵、避難民がぞろぞろと蟻の行列のように登って行った。
  • 6月20日、上原婦長は山城の丘で足に弾が当たって倒れ、比嘉診療主任がその場で手当をしている所を、砲弾が落ちて二人とも即死する。
  • 仲里静子は昭和19年、県立産婆養成所を卒業して陸軍病院第一外科に採用される。当時16歳。
    上原婦長はやせ形で色の白い、背の高い美人で、素晴らしい人柄だった。上原婦長は休む間もなく深夜まで50人程収容された各病室を見回っていた。静子たちが疲れて黙っていると糸満言葉でこっけいな話をして皆を笑わせた。軍医と一緒に手術をさばいて行く婦長の男勝りの手際のよさと頭のよさは、本当に頭が下がった。
    撤退後、伊原の壕に着いた時は砲弾の音もなかった。その壕でまる一週間は患者の治療を続けるが、吉原看護婦が便所に出ようとして直撃されバラバラになって亡くなる。
    6月18日、解散命令が出て、伊原の壕から脱出し、第三外科壕に行く。その時は比嘉軍医と上原婦長、静子、国吉看護婦だけになっていた。第三外科壕に入るが、すぐに出て、四人で逃げる。夜通し歩き続け、明け方、山城の丘にたどり着く。喉が渇いたがどうする事もできない。道の右手約20mほど入った所に雑草の茂みを見つけて4人で身を隠す。
    上原婦長は静子に『静子さん、もし結婚したら子供さんをたくさん作りたいね』と話しかけた。国吉看護婦は『水がほしい、水がほしい』と叫び続けていた。その時、砲弾の雨が降って来て、静子は気を失う。
    しばらくして気がつくと、上原婦長が静子を抱き抱えるように、静子の上に折り重なっていた。驚いてよく見ると、胸元に大きな穴があき即死の状態だった。右側を見ると比嘉軍医は頭を砕かれ即死、国吉看護婦は首をやられて即死していた。静子は気が動転して手榴弾の信管を歯で抜いて爆発させようとしたが不発で死ぬ事はできなかった。静子がふと左の足に痛みを感じて、よく見ると第一関節と第二関節の中間をえぐられ大きな穴があいて白い骨が丸見えになっていた。でもあまり痛みは感じなかった。どうせ死ぬなら婦長さんと一緒に死のうと決心し、その場を離れようとはしなかった。しかし、静子はまた気を失い、意識を取り戻すとコザの米軍病院のベッドに横たわっていた。
  • 上原婦長の遺骨は金歯があったのでわかった。上原婦長には奥歯に二、三本の金冠があった。金歯は当時の沖縄では珍しかった。貴美子の遺骨は糸満の上原一族の『幸地腹門中墓』に葬られた。



  • 師範学校予科三年の上原当美子(糸満出身)は貴美子の親戚。
  • 嘉手苅文子看護婦は上原婦長のお陰で腕の切断を免れる。
  • 照屋とみ看護婦は昭和1911月、宜野湾の県立看護学校を卒業し、南風原陸軍病院に配属される。当時16歳。壕の入口がやられた時、意識不明になり、気がつくと上原婦長が側にいた。とみにとって上原婦長は神様みたいな存在だった。
  • 奥松文子看護婦‥‥‥上原婦長はナイチンゲール賞に値すると思う。
  • 南風原文化センターは南風原小学校の側にあり、遺品や写真や模型が展示してある。




上原貴美子の略歴

大正 8年(1919 10 20

糸満の資産家、上原家の3女に生まれる。

12年(1923

妹、ハル子が生まれる。

13年(1924

父親(37)死す。すでに長男と姉二人は夭折。

15年(1926 4月 小学校に入学。6歳
昭和 9年(1934 3月 高等小学校を卒業。14
12年(1937 4月

那覇の元順看護婦養成所に入所。同期に13歳の宮里ツル子がいる。

13年(1938 4月

那覇の愛生病院内の産婆養成所に入所。ツル子は熊本の陸軍病院に就職。

14年(1939 4月

愛生病院の産婦人科に就職。

母親が急死し、妹一人が糸満に残され、沖縄に戻って来たツル子が下宿する。

19年(1944 6月

沖縄陸軍病院に採用され、第一外科勤務となり婦長を命じられる。

20年(1945 6月 20

山城丘陵で戦死する。




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