沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲




創作ノート




閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言


長田紀春著『閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言』より






昭和19 3月 22

沖縄防衛軍として第32軍が結成される。

5月

戦闘部隊の沖縄への輸送が始まる。

5月

動員令により熊本陸軍病院において球18803部隊が編成される。

5月 下旬

病院長広池文吉軍医中佐を初めとする先発隊は那覇に到着し、中城湾要塞病院(与那原小学校の場所にあった病院で院長は目源逸軍医大尉)を吸収合併し、那覇市樋川にあった開南中学校に二等陸軍病院を開設する。また、県立第二中学校(現那覇高校)を兵舎として使用する。

6月 初め

那覇において将校、下士官、兵を招集し看護婦、筆生、雑仕婦を民間より採用する。

6月 下旬

陸軍病院本隊が船舶により那覇に到着し、病院を開設(眼科、耳鼻科は内科に、歯科は外科に含まれる)、管下部隊や通過部隊の傷病者を治療収容する。

本部、内科、伝染病科は開南中学、外科は済生会病院、兵舎は県立第二中学校。

本部‥‥‥ 病院長

広池文吉軍医中佐(1896−.49

庶務科長

佐藤悌二郎軍医中佐

教育科長

仲本将英軍医大尉

衛生材料料長 柳沢猛薬剤中尉
診療科長

佐々木修一軍医大尉

外科診療主任

比嘉堅昌軍医中尉

内科診療主任

目源逸軍医大尉

伝染病科主任

嘉手川重達軍医中尉

10 初め

南風原分院を開設(南風原国民学校校舎を使用)、分院長は佐々木大尉で、玉城薬剤中尉も配属され、病院用諸機材も船舶にて到着した。

10

米空軍による空襲で本部のある開南中学校、外科の済生会病院、兵舎として使用していた第二中学校は爆撃によって破壊炎上する。病院全部隊は南風原分院に夜を徹して移動し、空襲による負傷者を治療収容する。

11

球部隊管下の軍医予備員、衛生下士官、衛生兵の教育を行い、目前に迫って来た実戦に備える。入院患者の増加に伴い軍医、下士官、兵の招集が増え、また、看護婦、筆生、雑仕婦の現地よりの雇用が増加する。

昭和20 2月

重傷者以外の患者は三角兵舎に移される。

師範女子部、一高女生徒が特志看護婦として病院に配属される事が決まり健康診断を行う。

2月 中旬以降

空襲の回数規模が増大する。

3月 24

米軍の艦砲爆撃が激しくなる。夜、師範女子部、一高女生徒が陸軍病院に配属される。

26

米軍、慶良間列島に上陸。

28

各科各病棟はそれぞれ壕内に移動し、診療と壕掘りを継続する。

29

夜、師範女子部及び一高女生徒の卒業式を三角兵舎にて挙行。

4月 1日

米軍は沖縄本島の北谷桑江一帯に上陸し、本島内で地上戦が始まり、戦傷患者が続々病院に後送されて来る。戦傷者の増加に伴い、内科、伝染病科を廃止し、診療所を再編成する。

第一外科‥‥‥ 主任 比嘉堅昌中尉
第二外科‥‥‥ 主任、目源逸大尉
第三外科‥‥‥

主任、鶴田基行中尉(伝染病科主任の嘉手川軍医はこれより先に他部隊に転属)

5月

大城見習士官を長として開設した玉城村在の糸数分室へ増援のため西平守正中尉以下衛生兵が派遣される。

20

病院は南風原から南部へ移動の準備を始め、24日にかけて各科とも移動を始める。

25

宮城中尉、玉城中尉以下の残留隊は持てるだけの衛生資材を持って南風原を後にして本隊に追及する。

下旬

南部に下がった各科各病棟はそれぞれ自然壕に入る。

本部‥‥‥ 山城の壕
第一外科‥‥‥ 伊原の壕
第二外科‥‥‥

糸洲の壕

第三外科‥‥‥ 伊原の壕
6月 18

午後7時頃、本部壕入口付近に米軍迫撃砲弾が落下し、広池院長、佐々木大尉、下士官、衛生兵、学生等多数が戦死し、負傷した。病院長は佐藤少佐、西平中尉により大腿部の切断手術を受けたが翌日戦死。

19

病院を解散し各個で戦闘を継続すべしという命令によりそれぞれ伍を組み壕から脱出する。

23

牛島司令官、長参謀長は摩文仁85高地にて自決する。





第一外科


◆比嘉堅昌 越来村出身。

軍医中尉、主任。誠実な方。山城で戦死。

◆山崎栄竈 東京都出身。

軍医中尉。痔核診療専門医で頼りになる感じの人。

◆福島慶之助 埼玉県出身。

軍医中尉。外科専門で何でもできる医師。あき時間に医療の講義をし信望大。

◆玉置莞爾 和歌山県出身。

軍医中尉。一日橋より転属して来た温和な人。

◇中村一郎 熊本県出身。 軍医中尉。
◇平良進 那覇市出身。 歯科医。
◆天願健三 具志川村出身。

見習士官。真面目な人でいやな仕事も率先してやっていた。

◆大隈喜志夫 京都府出身。

見習士官。勤務や治療に厳しい軍医、今考えると愛の鞭だったのか。

◆児玉秀純 鹿児島県出身。

見習士官。耳鼻科専門。小柄で話し中たえず眼鏡に手が触れていた。

◇木下平太郎 宮崎県出身。

見習士官。肛門科専門医。

◆中村秀光 鹿児島県出身。

見習士官。第二外科、糸数の壕まで来ていた。元気者。

 
◆谷口吉二 鹿児島県出身。

衛生軍曹。鹿児島弁で小声で話す優しい人。

◆風間小太郎 大分県出身。

衛生伍長。勝ち気の所があった。

◆仲村渠正辰 南風原村出身。

衛生伍長。地元であったため外勤の使役が多かった。優しい人。

◆牧高義 宮崎県出身。

衛生伍長。開南中学に病院があった頃より勤務。

◇滝沢鉄男 長野県出身。

衛生伍長。重傷の棚原看護婦を壕から壕へ避難させる。

◇樋高嘉吉 鹿児島県出身。

衛生材料科の衛生伍長。昭和18年5月、沖縄の陸軍病院に転属される。

◆石垣為弘 八重山出身。

衛生兵長。軍に対して堂々と意見を述べていた。山城海岸で戦死。

◆小橋川嘉誉 那覇市出身。

衛生兵長。歯科技工師。平良先生の助手をしていた。南風原で戦死。

◆ノブ武

衛生兵長。残留隊引き上げの命令伝達に行き南風原で戦死。

◇福留義則 鹿児島県出身。

衛生兵長。棚原看護婦と仲のよい友人。人懐っこい人。

◇仲村渠喜英 中城村出身。

衛生上等兵。昭和19年6月14日に招集される。

◇上原文雄 八重山出身。

衛生上等兵。

◆谷口勇雄 鹿児島県出身。

衛生上等兵。

◆栗秋商雄 熊本県出身。

衛生上等兵。面長で早口の大声で話し真面目な人。顔のホクロが印象的。

◆神之田義盛 鹿児島県出身。

衛生上等兵。

◆川上喜春 鹿児島県出身。

衛生上等兵。

◇吉永春蔵 熊本県出身。

衛生上等兵。

◇川端与久 神奈川県出身。

衛生上等兵。本籍鹿児島。優しい人。

◇末吉三之助 鹿児島県出身。

衛生上等兵。優しくおとなしい人で世の中の事をよく話していた。

◇宮城正喜 糸満町出身。

衛生材料科の衛生上等兵。奥松看護婦らと南風原に戻る。

◇新垣仙次郎 小禄村出身。

衛生一等兵。

◇宮里勇市 座間味村出身。

衛生一等兵。

◇宮里清友 越来村出身。

衛生一等兵。

◇金城孝喜 東風平村出身。

衛生一等兵。

◇上村渠正雄 仲里村出身。

衛生一等兵。

◆今村末夫 熊本県出身。

衛生一等兵。純情な青年。

◆田辺登 大分県出身。

衛生一等兵。病院開設当初より勤務していた。

◆中山義憲 鹿児島県出身。

衛生一等兵。山城の壕で負傷。

◆鎌田政親 鹿児島県出身。

衛生一等兵。

◇長尾幸喜 鹿児島県出身。

衛生一等兵。

◇今村清正 鹿児島県出身。

衛生一等兵。目の大きな優しい人。

 
◆上原貴美子 糸満町出身 典型的な糸満美人。看護婦長。不眠不休の激務は想像以上で、動作がきびきびして、弾の中もいとわず壕から壕へと飛び回り、多忙の中でもお互いいたわり合い、患者や生徒等にも真心を込めて励ました。軍医、看護婦、学徒にも尊敬され立派な婦長だった。6月20日、戦死。
◆長田ノリ 那覇市出身。

看護婦長。手術場の婦長として昼夜激務に耐えた。6月中旬、壕から出た途端、直撃弾を受けて戦死。

 
◇嘉手苅文子 南風原村出身。 看護婦。昭和18年4月、那覇市松山町にある沖縄県立病院付属看護婦養成所へ入所。十・十空襲で県立病院も全焼、病院は患者と共に宜野湾村国民道場へ移り診療が行われていたが業務困難となり。間もなく閉鎖。1110日、繰り上げ卒業。那覇市の開南中学にあった沖縄陸軍病院が空襲で焼け、南風原村兼城区にある母校の南風原国民学校(現在南風原小学校)に移転し、そこへ軍属として20人が1115日に採用される。文子と糸数俊子、我如古シズ子、神里栄、新里守江の5人は外科病棟に配置される。
陸軍病院には村民より炊事夫(婦)、雑仕婦、雑役夫等が採用されていた。病院関係者の病院長、軍医、看護婦長等は瓦葺きの民家に分散宿泊し、看護婦は全員兼城区の公民館に宿泊していた。軍隊の規制は厳しく、病院近くの自宅からの通勤も禁じられていた。午前7時起床し、公民館より婦長を先頭に隊列を組んで、8時までに病院の門前に到着、衛兵に全員が『頭右(または左)』をし、婦長の人員報告が終わって病院内に入る事ができた。勤務が終えて退庁時にも同様に人員報告をして門を出る。このような団体行動がなされ、勝手な単独行動は許されなかった。
服装は定まった制服ではなかったが、もんぺに救急鞄(手作り)、防空頭巾は常時着用していた。教室が病棟となり板床の上に毛布、ムシロを敷き、1教室に20人から30人くらいの患者がいた。
3月下旬、校舎は焼失し、患者は三角兵舎へ移される。その頃、県立第一高女、女子師範の学徒が配置される。学徒たちの仕事は食事の世話、尿処理、死体処置等で激務を死の危険をおかして頑張っていた。
外科壕の中は立って歩けるくらいで真中は通路になっていて両側は二段ベッドになっていた。天井はなく雫が上から落ちて来た。上段は重傷患者で下段は軽傷患者が収容されていた。照明は初めは石油ランプだったが、後には手術室だけになり、患者の壕は缶詰の空き缶に豚脂や他の油を入れて包帯をよじって灯心にした。また、ローソクを使用する事もあった。そのため、顔や鼻の中は真っ黒になっていた。
3月下旬、空襲が激しくなり負傷者も多くなって来た。しかし、医療品や衛生材料もなくなって、ガーゼ等を再生して使用するようになっていた。
4月15日、第二外科に配置されていたクラスメートの安里ユキ子が訪ねて来て、久し振りの対面を懐かしがり、二人で手術室へ器材受領のため壕を出た時、爆撃にやられ、ユキ子は即死、文子は重傷を負う。その後は第一外科7号の壕内で患者として過ごす。
手術室には爆撃や砲弾による負傷者が毎日60人から100人かつぎ込まれていた。医師2人、看護婦2人、衛生兵2人でほとんど寝る間もないほど多忙の上、医療器材の不備、薬品不足等で、負傷した上肢、下肢は切断するしか方法はなかった。文子の右腕も切断されそうになったが、奥松看護婦の懇願により切られずに済んだ。
5月25日、南部の真壁に転進の命令が出て、独歩患者以外の担送、護送患者には青酸カリが配布され、白い粒の薬は文子にも割り当てられたが救急鞄の底に入れた。負傷して1ケ月、傷はギブスが外されるまでに回復していた。ギブスの代わりに三角巾で首に右手を吊るし、数人の患者と共に上原婦長に護られて壕を出た。大雨の降る夜道を泥だらけになりながら南部へと歩いた。
道路や溝には兵隊や住民の死体が転がっていた。特に山川橋の三差路辺りは集中攻撃があったのか、多くの死体が雨に打たれていたが、その時はもう多くの死体を見ても何の感情も起こらないようになっていた。
夜明けに南部の伊原の自然壕にたどり着き、ゴロゴロした岩の上に毛布を敷き横になる。南風原の激戦地に比べ静かで平和そのものだった。ほっとしたのか力尽きて死亡する者も出た。しかし、日本の勝利を信じ、必ず友軍が来る事を信じていたのは文子だけではなかった。しばらくすると南部の地にも艦砲が打ち込まれ米兵が壕の近くまで進撃して来た。
6月18日の夜明け、解散命令の伝達があり『18日の夜明けから明日の未明までに壕を脱出するように』との命令だった。文子を含め十数名の者が壕に残された。数日経つと壕の外は嵐が過ぎたように静かになった。腸チフスで衰弱していた国吉看護婦に勧められ、夢遊病者のように杖にすがって当てもなく壕を出る。米兵に捕まり捕虜となり、宜野座の米軍野戦病院に運ばれる。北部に疎開していた母と姉妹が訪ねて来て再会を喜ぶ。
◇奥松文子 那覇市出身。

看護婦。愛称はマッちゃん。
昭和16年、看護婦免許を取得し、翌年、沖縄県の保険婦試験に合格。
昭和18年、県衛生課に保険婦として採用され南風原村駐在となる。村は12カ字で都市に囲まれていたせいか無医村だった。衛生状態はあまりよくなく、結核や慢性の伝染病疾患が蔓延していた。
昭和19年6月、沖縄陸軍病院(球18803部隊)が開設され看護婦の公募があり採用となる。文子が手術場担当を命じられた外科は那覇市下泉の済生会那覇診療所に設置されていた。その頃、陸軍病院の器材を乗せた船が大島沖で撃沈されたとかで、次便の輸送あるまでは県内の病院(県立病院、浜松病院、善興堂病院)より借りて間に合わせる事になる。今まで仲村渠喜英衛生一等兵が行っていたこの業務を県内の医療事情をよく知っていて器具を実際に取り扱える責任感のある積極的な看護婦にさせるという事で、借用から返済まで受け持つ事になり、必要な時は自転車に乗って飛んで行った。外科勤務の看護婦は桐原、上原貴美子、棚原シズ、比嘉千代子(2ケ月後に退職)等がいた。
1010日、空襲の最中、入院患者を南風原国民学校へ移動させる事になった。患者は容体によって独歩、護送、担送の3つに分けて独歩と護送の患者は一人で歩かせ、今朝、盲腸の手術したばかりの患者までも腹を押さえてと無理をさせた。26人の患者移送は午前8時より夕方までかかった。
昭和20年5月末、南風原から真壁に転進、伊原の壕に移る。ノブ武班長、長田婦長、奥松文子、宮城上等兵は医療器具を取りに再び、戦火の中、南風原に向かう。南風原の近くまで来て、ノブ武班長と長田婦長が砲弾にやられる。命懸けで持って来た医療器材は外科壕で使う事はなかった。
6月19日、陸軍病院が解散となる。南風原に引き返した時に濡れたのが原因で急性肺炎になっていた重態の文子を真栄平トヨ看護婦が背負って壕を脱出したが、逃げる途中、砲撃で吹き飛ばされる。気がつくと誰もいなかった。
9月12日、中頭の棚原の壕で米軍に収容される。

◇多嘉良ツル子 仲里村出身。

看護婦。途中から重傷患者のいる兵器厰の壕の勤務となる。
南部撤退後、伊原の壕を出て、山城の海辺で一緒だったのは衛生兵の石垣兵長、看護婦の稲嶺、生徒の宮平、友利の5名だった。

◇照屋とみ 大里村出身。

看護婦。9号壕の受け持ち。学生が4、5名配置され、診療主任(比嘉軍医)、福島軍医、山崎軍医、大隅軍医、児玉軍医、平良進先生(歯科医、軍属)が2、3名づつ交代で待機していた。

◆新垣順子 真和志村出身。

看護婦。妹のヨシと仲良く務めていた。

◆新垣ヨシ 真和志村出身。

看護婦。姉順子と共に南部で戦死。

◆稲嶺トミ 具志頭村出身。

看護婦。体格ががっしりした人で、頭がよくしっかりした人。

◆我如古シズ 大里村出身。

看護婦。働き者で人望があった。体格の大きい人。

◆神里栄 南風原村出身。

看護婦。優しい人。捕虜になる前に手榴弾で自決。

◆国吉キヨ子 那覇市出身。

看護婦。第三外科の国吉文子は姪(兄の子)。南部の壕で戦死。

◆新里守江 大里村出身。

看護婦。おっとりした人。目立たずコツコツ仕事をする人。

◆高嶺安子 那覇市出身。

看護婦。やや背が低く、はきはきした可愛い人。

◆棚原シズ 中城村出身。

看護婦。男まさりで上原貴美子、奥松文子と第一外科の三羽烏と言われていた。

◆仲村渠秀子 那覇市出身。

看護婦。やや小柄。十・十空襲の頃から参加する。

◆西原信子 那覇市出身。

看護婦。小柄。皆より年上のせいか姉のようだった。

◆浜川栄子 那覇市出身。

看護婦。4、5月頃、激戦になってから参加する。

◆比嘉マサ子 那覇市出身。

看護婦。5月頃壕に入ってから参加する。

◆新垣信子

看護婦。

◆浦崎和子 北中城村出身。

看護婦。南部で戦死。

◆真栄平トヨ 首里市出身。

看護婦。南部で戦死。

◇上江洲千代 那覇市出身。

看護婦。手術場勤務。

◇仲里シズ子 南風原村出身。

看護婦。上原貴美子婦長の傷の処置をした。

◇比嘉文子 北中城村出身。 看護婦。
◇糸数俊子 知念村出身。 看護婦。
◇神山カナ 那覇市出身。

看護婦。子供を実家に預けて陸軍病院に入る。

◇真栄平豊子 那覇市出身。 看護婦。
 





第二外科


◆目源逸 大阪府出身。 軍医大尉。診療主任。温和な人。糸洲で自決。
◆川崎元一 新潟県出身。 軍医中尉。伊江島より転属して来る。
◆高橋清 京都符出身。 軍医中尉。与儀分院より来る京都弁の真面目な人。
◇宮城普吉 那覇市出身。 軍医中尉。
◆島袋一夫 首里市出身。 軍医中尉。軍医部へ転属。
◇古謝将厚 那覇市出身。 見習士官。
◆仲本将吉 那覇市出身。

見習士官。軍医というより町医者の感じで気取らず優しかった。

◆上原啓一 那覇市出身。

見習士官。現地招集。背が低く、おとなしい人。石部隊へ転属。

◆高山守 宮崎県出身。

見習士官。整形外科の専門医。嘉手苅文子の手術を行う。

◆平川智 鹿児島県出身。

見習士官。眼科専門医。糸洲で自決。眼鏡をかけている。

◆町田宗俊 北谷村出身。

見習士官。体格のよい人で他へ転属した。

◆平川智 鹿児島県出身。

見習士官。眼科専門医。糸洲で自決。

 
◇小畑美隈 大分県出身。

衛生軍曹。

◆溝口政嘉 宮崎県出身。

衛生伍長。

◆神村吉信 具志川村出身。

衛生兵長。真面目で実直な方だった。

◆浜川智祐 具志川村出身。

衛生兵長。都城への公務帰途海上で戦死。

◇今崎末広 大分県出身。

衛生上等兵。眼鏡をかけている。2歳の子供あり。
昭和19年7月5日頃、那覇港に着き開南中学校に病院を開設し、与那原の病院に行き伝染病棟勤務に就く。
昭和20年3月上旬、鮫島曹長(鹿児島県出身)と二人で師範女子部に衛生法、救急法、包帯術の講義実務に行く。
4月5日頃、南風原に転任し第二外科勤務となると同時に佐々木大尉の当番兵として学校より約300メートルの将校宿舎に勤務する。宿舎には仲本大尉、目大尉が同宿していた。3人の当番兵は洗濯、掃除、食事の世話をした。仲本大尉と目大尉は温厚篤実な方だったが、佐々木大尉は若いせいか、奥さんからの手紙を見せてはのろけていた。敵攻撃が激しくなると当番兵は廃止され実務に就いた。
4月上旬頃、鮫島曹長が学校長の娘と結婚する事になり、結婚式を終えて出てくる所を見る。鮫島曹長は軍服で花嫁は絣のもんぺ姿で頭にハイビスカスを1輪差していた。
南部撤退の時、青酸カリを配れと命じられるが配らなかった。
糸洲の第二外科壕は入口は直径2メートルくらいで畑の中にある丸い自然洞穴だった。梯子で3メートルほど下がると細長い横穴のある洞穴で負傷者は収容できず、兵と先生、女学生と看護婦20名くらいいた。
6月10日頃まではあまり敵の攻撃はなく、偵察機(トンボ)が盛んに飛んで偵察しているだけの、のどかな日が続いたが、十日過ぎから空襲、艦砲射撃、陸上戦が激しくなり、戦傷者も続々集まるが入れる所がない。その頃、病院はすでに病院としての機能を失っていた。下士官、兵の3分の2くらいは歩兵部隊に転属となり命令受領には兵1名と女生徒1名となって3日に1回の割りで行った。本部壕まで800メートルくらいあった。
仲本大尉は壕内で青酸カリで自決する。

◆友寄英元 那覇市出身。

衛生上等兵。南部で戦死。

◆島田助男 大分県出身。

衛生上等兵。南風原の頃、患者護送で帰還せず。

◆中川清 福岡県出身。

衛生上等兵。背が高く色白で優しい責任感の強い人。

◆岩佐和夫 大分県出身。

衛生上等兵。はきはきした人で部隊長の当番兵。

◆田口久 大分県出身。

衛生上等兵。おとなしい人で第三外科から来る。

◆金丸竹生 鹿児島県出身。

衛生上等兵。理容師。皆の髭を剃って奉仕していた。

◆田嶋虎夫 鹿児島県出身。

衛生上等兵。愛称虎さん。

◆成尾英規 鹿児島県出身。

衛生上等兵。おとなしい人。

◆米森力 鹿児島県出身。

衛生上等兵。大和踊りが上手で、はきはきして皆と話していた。

◇築城徳雄 大分県出身。

衛生上等兵。

◆有銘松 仲里村出身。

衛生一等兵。色白で外人のような青年。

◆嘉手苅信賢 仲里村出身。

衛生一等兵。

◆与那嶺伝喜 具志川村出身。

衛生一等兵。3月下旬、飯上げに行って足負傷し破傷風で戦死。

◆当間清光 佐敷村出身。

衛生一等兵。

◆東江誠賢 具志頭村出身。

衛生一等兵。はきはきした人。

◆工藤一二三 大分県出身。

衛生一等兵。優しい人。

◆大迫静男 鹿児島県出身。

衛生一等兵。山城の本部隊で負傷戦死。

◆田島文吉 鹿児島県出身。

衛生一等兵。愛称文さん。

◆筌口保 大分県出身。

衛生一等兵。黒縁の眼鏡が印象的。

◆飼牛繁治 大分県出身。

衛生一等兵。

◆工藤五郎 大分県出身。 衛生一等兵。
◆山口直 大分県出身。

衛生一等兵。

◆中久保熊市 鹿児島県出身。

衛生一等兵。

◇山口兼義 鹿児島県出身。

衛生一等兵。

 
◇真玉橋ノブ 首里市出身。

看護婦長。昭和20年4月、米軍上陸後、陸軍病院の看護婦になる。

◇桐原ツイ 熊本県出身。 看護婦長。
 
◆安里ユキ 中城村出身。

看護婦。歌上手で髪の綺麗な人。4月15日南風原第一外科前で戦死。

◆具志賢ツル 那覇市出身。

看護婦。やせ型で色白。糸洲で戦死。

◆宮城ヒデ 浦添村出身。

看護婦。体の大きい人。足部負傷。糸洲壕内で戦死。

◆山田フミ 具志頭村出身。

看護婦。几帳面。

◆池原タケ 首里市出身。

看護婦。南風原で戦死。

◆嘉陽田ノブ子 与那城村出身。

看護婦。夫は南方戦死。当時教員だったが希望で病院に参加。

◆崎山茂 大宜味村出身。

看護婦。南部の山城で本部壕に命令受領に行き帰還せず。

◆大城信子 南風原村出身。

看護婦。小柄で、のぶちゃんグヮーと愛称で呼ばれていた。

◆玉城芳子 大里村出身。 看護婦。
◆玉城トミ 具志頭村出身。

看護婦。きれいな人。南部で戦死。

◇金城サエ子 首里市出身。 看護婦。
◇屋良ハツ 具志頭村出身。

看護婦。昭和191013日、陸軍病院の志願看護婦として採用され内科に配属される。内科の診療主任は目源逸軍医大尉で、職員として桐原婦長、高橋軍医、町田軍医、中村軍医、渡口軍医がいた。看護婦は崎山しげ、宮城秀、上当キミ、稲嶺香代子、安次嶺ヨシ等がいた。
11月になると他の志願看護婦が参加され約20名の大勢となる。
昭和20年1月中旬に山手に三角兵舎が完成し患者を収容する。
3月下旬頃、内科から第二外科へ名称が変わり壕内へ移動。内科疾患の患者は目軍医が診察されたが、戦傷処置や切断等の手術は内科の軍医では専門が違うので、すべて第一外科の高山見習士官が来て診療し、後からは平川見習士官、中村見習士官も参加した。目軍医は外科的治療には手をつけなかったが、諸事万端の指揮や相談を受けていた。第二外科の壕は縦横に開通していて目軍医は二段ベッドの上にいた。
5月25日、第二外科全員、南部へ退去する。ハツは大城ノブを連れ新城にいる両親と会ってから山城へ向かう。糸洲の壕が第二外科壕となる。女子師範の照屋キクの家が近くの部落にあり、壕とその家を往来して皆休養を取っていた。ある日、照屋家に直撃弾が落ち、学徒や看護婦に被害者が出る。
糸洲の壕には稲嶺看護婦の母親と親類、孤児のクニヲという男の子、宮城秀子看護婦の両親も入っていた。軍の壕には民間人を入れない規則になっていたが目軍医は独断で同居させていた。その頃、目軍医は激しい下痢に襲われ、便器を離せない状態になっていて体力は落ちていた。
6月15日頃、臨月近い妊婦がお産の相談に来ると、目軍医は知念百名方面に民間人の収容所があるから夜は行動しないで昼間歩いて行きなさいと指示する。色々な情報を広く知っていた。
6月18日、目軍医は第二外科を解散する命を下す。学徒15名は糸洲の壕を出た後、第三外科壕に行った者は戦死した。ハツは壕を脱出した翌朝、稲嶺香代子看護婦、クニヲと共に米軍に収容される。

◇新崎良子 糸満町出身。

看護婦。昭和191013日、陸軍病院の志願看護婦として採用され内科に配属される。糸洲壕を脱出後、生徒2人と勝間看護婦と一緒に山城の海岸で捕虜になる。

◇安次嶺ヨシ 那覇市出身。 看護婦。
◇稲嶺香代子 宜野湾出身。 看護婦。
◇上当キミ 勝連村出身。 看護婦。
◇大城フサ 南風原村出身。

看護婦。

◇新垣美代子

看護婦。

◇勝間弘子 名護市出身。

看護婦。

◇平良八重子 浦添村出身。

看護婦。

◇又吉ハツ子 大里村出身。

看護婦。

 
◆長嶺ヨシ 大里村出身。

雑仕婦。冨村タケと行動を共にした。

◇冨村タケ 大里村出身。

雑仕婦。陸軍病院創設当初より勤務していた。

◇冨盛喜代子 那覇市出身。 雑仕婦。小柄な人。
昭和18年頃、職業安定所の紹介で陸軍病院に雑仕婦として勤務する。
◇譜久村陽子 首里市出身。 筆生。
 
◇岸本ヒサ 沖縄師範学校女子部本科1年。
昭和20年3月24日明け方の5時頃、南風原の三角兵舎に着く。
4月7日までは教師、学生は2425号壕にみんな一緒にいた。師範本科2年生は壕近くで炊事をし、学生だけの食事を作る。本科1年生は各病棟壕に分かれて看護活動をする。予科生は壕掘りと看護活動に回された。
稲嶺看護婦はおとなしい人だったが、てきぱきと処置していく様子はおじけづいている生徒がただ見とれるほど機敏だった。
両手のない兵隊が心細い声で『尿器を貸して下さい』と言うと、それっと看護婦さんを探しに大騒ぎとなる。それが度重なると『あんた方、何しにここに来たの。もっとしっかりしなさい。これからもっと大変な事が起こるんだから』ときつく叱られた。その頃から看護婦は壕には顔を見せず、仕方なくこわごわ勇気を出して仕事をするようになった。
4月の末、内科は第二外科となる。これまで、みんな一緒にいた2425号壕は病棟になり、3つの科にそれぞれ先生も一緒に分かれて行った。その時以来、友達、同期生も生き別れになった人も多い。
第二外科では19号壕の入口に生徒だけの休む床が敷かれ、各壕にはグループを作って交替制で勤務し、代わり番こで休んでいた。その頃から治療班が編成され、比嘉園子、仲里順子、田場其枝、岸本ヒサの4人が指名され、看護婦1人と学生2人が組を作り交替で各壕の包帯交換に回った。
貫通している壕は軍医が行き、外から回らないと入れない壕は看護婦と学生が行く。治療が終わっても19号に戻れない事が何回かあり、24時間ぶっ続けというのが度々あった。ヒサたちと一緒だったのは大抵、新崎良子看護婦だった。彼女は負傷兵にも学生にも率直にものが言える人で、きびきびしていて教える事はきちんと厳しく教えるので、とても気持ちよくついて行く事ができた。決して褒める事はなかったが、失敗しても兵隊や学生の前では叱らない。後で、こんな風にした方がいいと教えてくれる。学生が軍医に叱られても執り成してくれたり励ましてくれていた。非番の時、綿球やガーゼを切ったりしている時も細々と教えてくれるが無駄口はきかない。里心ついた学生が家族の事を話したりするが、その時、新崎看護婦はすっと立って休みに行く。
高山軍医(外科医)が第二外科に来てから、ここでも手術をするようになった。手術場は生徒の控場の近くにあったので、手足を押さえる役目に駆り出された。薬品箱を並べただけの手術台にアルコールランプで焼いたりして消毒した器具、充分な設備もない中で手順よく手術を手伝っていた看護婦、無表情で真剣な眼差しで見入っている看護婦の姿は揺れるローソクの中にくっきりと今も脳裏に焼き付いている。気の荒い高山軍医は怒鳴ってばかりいて学生はいつもおびえていたが看護婦は平気な顔で対応している。心の中で泣くほど悔しかったと思うが偉いと思った。手術が終わって目も虚ろな高山軍医が『片付け』と命じて寝台にごろっと横になる。看護婦は手術後の器具の手入れや片付けをしている。手術前に亡くなってしまった負傷兵を学生が片付けなければならなかった。昼の3時頃で一番弾の多く飛んでくる頃だった。死体を担架に載せたものの誰が先になるか揉めている。出ようとするがまた戻って来たりで入口でせり合っていると『やかましい』と軍医から怒鳴られる。意を決し、今日は死ぬかもしれないと脅えながら担架を持ち上げると、後ろから肩を押されて『下におろしなさい』という。振り返ると真玉橋婦長が立っている。婦長は両手を死体の腰のあたりに入れて抱き抱えるとさっと壕を出て行った。ほんとにあっという間の事で学生4人はただ立ちすくんでいた。しばらくして何事もなかったように戻って来た。『すみません』と頭を下げると『4人が怪我をしたらどうする』と小さな声で言い奥の方に行った。
4月下旬頃からは前線から送られてくる負傷兵の手術と処置で看護婦は病棟壕には全く顔も出さず、看護一切、蛆取りまて学生だけで頑張っていた。目大尉は病棟壕に交替で帰ってくる学生に声をかけていたし、治療に学生だけで行く時は、よく情勢を見て『それ行け』と送り出す事もあった。目大尉はなかなか外には出なかったが、こんな時は泰然としていた。桐原婦長は生徒に注意したい事も直接言った事はなく。すぐ側に立っていても看護婦を通してものを言う人だった。
5月24日、南部撤退の日、16号に包帯交換に行き、帰って来たら看護婦も皆立ち去った後で、手術場に木箱が3つ置かれて、衛生兵が『桐原婦長が治療班で運搬するように』との事だった。2つは書類がぎっしり入っており、1つは薬品や衛生材料だったので、それを仲里順子に背負わせ、重い方の書類を岸本ヒサがかつぎ、雨でぬかるんだ坂道を転げるように下る。少し目をこらして畑の方を見ると米兵が銃を構えて座っている。背筋が寒くなり手足はガタガタ震えて生きた心地もしなかった。肩にくいいるような書類の重さも忘れて、無我夢中で照屋の部落から山川橋まで一目散に走って行った。山川あたりからやっと避難する民間人に出会ってほっとした。
◇田場其枝

沖縄師範学校女子部本科1年。
1944年4月、沖縄師範学校女子部本科に入学し、すぐ寄宿舎に入った。一年先に入った安次富千枝が慣れない其枝に色々と世話をしてくれた。一日中壕掘り作業をさせられ、身の回りの洗濯などは夜になってからした。千枝さんはある夜、洗濯物を干し星を眺めながら『数学や英語をもっともっと学びたい。非常時で思うようにできない』と口惜しそうに話した。あれほど向学心を燃やし、平和な日を望んだ千枝は昭和20年6月13日に三和村山城で戦死したと伝えられている。
8月になると戦争がだんだんと厳しくなり、婦女子は足手まといになるので疎開するようにとの事で、其枝の家族も台湾に行く手続きをする。荷物を船に乗せ出発を待っている時、一人の先生と出会い、『若い人が沖縄を守らないといけない』と言われ、着のみ着のままで寮へ帰る。
野田校長は空襲が激しくなった頃、全国校長会に出席し、死を覚悟で沖縄に帰って来た。安全な参謀本部勤務を命じられるが断り、男子部の生徒と行動を共にした。今でも校長を尊敬する人は多い。
十・十空襲で其枝の家も焼け、首里に住む養母方の曾祖父母と祖母も行方不明となる。校舎の窓ガラスは飛び散り、床もあちこちはがれミシミシ音を立てた。
治療班の一員になり、いつも仲里順子と組んだ。当時、婦長は下士官位の権威があり恐れられていた。壕の中で櫛を落としたら、もう探せなかった。夢の中でもウジ虫に悩まされ、『ああ、ここにも、あそこにもいる』とうわ言を言った。





第三外科


◆嘉手川重達 那覇市出身。

軍医中尉。伝染病科主任。優しく慈父のように慕われていた。
南部移転前、他へ移動し、主任は鶴田軍医に替わる。

◆鶴田基行 長崎県出身。

軍医中尉。診療主任。山城で自決。

◇長田紀春 那覇市出身。 見習士官。
第一外科で使用した壕は20ケ所、他に兵器廠の壕2ケ所も使用していたので計22ケ所。手術室や職員の使用した場所や落盤した壕を除くと19ケ所分のスペースで患者を収容した。収容能力の少ない壕で2030名、奥行きのある壕で4050名、計約800名の患者がいて、歩ける患者を除くと400名位の重傷者がいたと推測される。第二外科は患者を収容していた壕が7ケ所あり、総数280名位の患者を収容していた。重傷者は150名以下と推測される。第三外科は撤退時に患者壕は2ケ所だけで患者数は7080。歩ける患者を除くと30名程の重傷者がいた。
6月8日早朝、摩文仁の軍医部へ転属となる。
◆上江洲毅 具志川村出身。

見習士官。東大出身の真面目な人。他へ転属。

 
◆喜屋武松助 小禄村出身。

衛生曹長。南部伊原の第三外科壕でガス弾により戦死。

◆新垣松雄 名護町出身。

衛生伍長。主任下士官。班長。親身に兵や看護婦の面倒を見ていた。大里村稲福で戦死。

◆香川盛景 宮崎県出身。

衛生伍長。色浅黒く、背が高く宮崎婦長と話が合うようだった。

◆上地宗次郎 国頭村出身。

兵長。検査室勤務。背やや低く目の大きい優しい人。他へ転属。

◆貴島鎮雄 鹿児島県出身。

衛生上等兵。几帳面な人で兵、看護婦などを厳しく指図していた。

◆木原重信 鹿児島県出身。

衛生上等兵。黙々と率先して働いていた。

◆吉富久雄 大分県出身。

衛生一等兵。看護婦や生徒に協力的だった。

◆尾辻進 鹿児島県出身。

衛生一等兵。

◆高野盛武 鹿児島県出身。

衛生一等兵。

◆俵久雄 熊本県出身。

衛生一等兵。背が高く真面目な人。

◆鍋山勲 鹿児島県出身。

衛生一等兵。

◆立神休市 鹿児島県出身。

衛生一等兵。

 
◆宮崎久枝 熊本県出身。

看護婦長。威勢のよい元気な人。第三外科壕でガス弾により窒息死。

◇具志八重 那覇市出身。 看護婦長。
十・十空襲で勤務していた県兵事厚生課済生会支部の業務は不可能となる。その頃より他県から来ていた職員が公用または病気を理由に家族と共に沖縄を離れて行くのを見て、薄々沖縄は戦場になるのではないかと感じた。日本の軍隊が次々に沖縄に上陸して来るようになり、那覇市民が北部、中部、南部へ。また他県へ疎開し始めた。国の方針で医療人は他県の疎開は許されなかった。職場の上司より陸軍病院伝染病科診療主任嘉手川重達軍医中尉への紹介状を書いてもらい、南風原の病理検査室勤務となる。職員は嘉手川軍医を主任として上地宗次郎衛生兵長、山川衛生曹長、看護婦の上江洲ミツがいた。業務は腸チフス、アメーバ赤痢、脳炎等の血液検査、検便が主だったが、軍人らしくない穏やかな軍医のもとでの勤務は和気あいあいとして楽しかった。伝染病科の看護婦はほとんど沖縄県立病院の卒業生と日赤乙種看護婦の卒業生で18歳前後の彼女たちは他の病棟婦長より厳しいと言われていた他県出身の宮崎婦長のもとで自信を持ってテキパキと与えられた業務の処理を行っていた。
4月、伝染病棟は第三外科と変わり、婦長も2人制となり八重が任命される。
第三外科の壕は勤務者と患者用に分かれ、勤務者の壕は現南風原町役場のある所で、3つは与那原に向き、裏の方にも2つの壕があった。
飯上げは衛生兵、看護婦、女学生が交代で各病棟より喜屋武の本部の炊事場まで出掛けて行き受領、配膳、さらに食器返納が行われた。どの病棟よりも遠い第三外科は大変だった。魔の三叉路といわれる砲弾のよく落ちる所を通り抜けなければならず命懸けだった。動作の鈍い八重は食後の食缶洗いと返納を担当した。1斗樽の食缶洗いは容易ではなく、飯粒が一粒でも残っていたらまた洗い直しである。10メートル程の深い井戸から釣るべで水を汲み上げ縄をタワシのように丸めた物での洗い流しは大変だった。
5月下旬、南部撤退の連絡が他科より遅く入り、皆バラバラで撤退する事になった。重症者には後で迎えに来ると言い残し、歩ける恢復者と脳炎の後遺症で失明の3人を安谷屋、大嶺看護婦と八重の3人で引率し皆の後を追った。道の両側に民間人や兵隊の死体が黒く大きく膨れ上がって転がっていた。伊原まで無事に着くが宮崎婦長に命じられ、八重は新垣班長と安谷屋ヨシ子、本永マサ、大嶺シゲ子の5人で星明かりを頼りに闇の中を病床日誌を取りに南風原に戻る。病床日誌の埋めて置いた壕は爆破され、壕の跡の弾痕は折からの大雨で大きな池になっていた。池の中を探すが見つからず諦めて引き返す。全員無事に帰る事ができた。
伊原の集落の住民はほとんど避難していた。砲弾や機銃の音も少なく、穏やかな農村風景だった。一夜を民家で過ごし、壕に入る事になる。
伊原の第三外科壕は松林の一角にあり、首の細長い壷の形になっていた。入口は空に向いていて直径5メートル位の広さでアダン、ソテツ、ガジマル等で覆われ、外からは全然わからないようになっていた。入口より8メートル位真っすぐ下へ降りると底は広く、横へ縦へと行ける大きな自然壕で、村では『チブルアブ』と呼んでいたようである。当初、入口から蔦や木の根っこを捕まえて下へ降りていたが、後に板梯子が設けられ、それで昇り降りしていた。サンゴ礁の岩は窪みや横穴等があり、軍医、兵、看護婦、雑仕婦、学徒が各々適当の場所に5人、10人と隠れていた。生徒は比較的広い横穴を利用し、先生を中心に母鶏が羽根の下にひよこを抱えるように1ケ所に集まり、寄り添うようにしていたのが羨ましかった。南風原よりこの壕に来た時には既に地元の住民が避難していたのを軍が使用するからといって老母と嫁と子供を残して立ち退いてもらった。大きな瓶の中に芋くず、芋カス、大豆、干し大根等の食糧を残して出て行った。
第三外科職員は37人で看護婦は25人だったが、その中から看護婦6人と軍医1人、患者1人が奇跡的に生き残った。
 
◇安谷屋ヨシ子 与那原村出身。 看護婦。
十・十空襲の時、県立病院の看護婦学校2年生だった。病院は空襲によって跡形もなく焼失。
11
月、宜野湾の分院の前庭で仮卒業式を挙げる。46名の卒業生中20名が陸軍病院に4名が海軍病院、4名が宮古陸軍病院に志願する。そのうち陸軍看護婦として南風原陸軍病院の伝染病棟に11名、内科病棟に4名、外科病棟に5名が配置される。
戦火が拡大され浦添の前田戦線には負傷者が急増し、各病棟は本格的に戦場化して行った。道路が破壊されトラックの使用が不能になり、部隊の戦友によって負傷者は担架で運ばれて来た。第三外科では長田軍医と新垣班長とが患者の手術や治療のために毎日命懸けで壕から壕へと移り歩いていた。
伊原の民家に移動した後、古波蔵看護婦が機銃を受け負傷してしまい、壕に移る事になる。壕の中には自然にできた大小のいくつかの穴があり、民家より運んだ板で床を作り、そこに10名ほどのグループが入っていた。ヨシ子のグループは本永が班長で、大嶺や看護婦試験に合格した学徒の座波などがいた。伊原に移動してからは患者の医療業務はなかった。糸洲に海軍の食糧集積場があり、先生や女学生、看護婦らで食糧調達に出掛けた。そこから乾パンや牛缶等を取って来た。民間の人々の避難する壕を回り、味噌や砂糖、米の入った瓶を盗み取ろうとした事もあったが、その壕の女主人に見つかり、食糧は持って行かないでくれと嘆願され、何も取らずに引き上げた。壕には水がないので井戸に人が集まるため、艦載機によく狙われた。
◇大嶺茂子 小禄村出身。 看護婦。
昭和19年、那覇市内の病院に勤務していたが、院長と同期生の軍医の紹介で陸軍病院に採用される。その頃、陸軍病院は空襲により開南中学校より南風原国民学校へ移転していた。初めの勤務は伝染病科婦長室勤務で、婦長は宮崎婦長だった。
昭和20年4月頃より砲弾が激しくなり三角兵舎から防空壕に移る。家畜等が砲弾で殺されているのを見て、退院命令が出たのに原隊が移動して帰れなくなり病棟に残っていた古川上等兵は大通りの井戸で豚を解体している時、直撃弾で戦死した。
4月下旬、女子師範、県立第一女学校の学徒が参加した頃になると首里、浦添から負傷兵が次々と送り込まれて来た。
伊原の壕では『命令受領』『壕内の報告』『水汲み』が交替で毎日命懸けで行われていた。
新垣班長らと伊原の壕を出て、山城の壕へ行く。山城の壕の奥には泉があった。山城から北へ向かう途中、本永看護婦が見えなくなり、探していたら若い女性がいるという情報があり、行ってみると第三外科壕近くで奥松看護婦と会う。さらに東風平村後原で玉城中尉と一緒になり、その後、大里村稲福の壕で砲兵隊の兵も加わる。しかし、米軍に発見され、応戦の時に新垣班長と金城伍長は戦死した。8月17日だった。
棚原の壕で宣撫班が日本敗戦と言っているのが本当だとわかり、奥松看護婦と9月に捕虜になる。
◇宮城初枝 具志川村出身。 看護婦。
昭和20年1月1日、陸軍病院勤務を命じられる。
壕内は暗くて狭くて全く鮨詰めの状態で、これでも負傷兵の看護ができるかと思う程の設備だった。傷の痛みや40°前後の高熱が続いて脳症を起こしている人とか、伝染病患者や食事も取らず、薬も飲まず苦しんでいる負傷者がおり、膿の悪臭、ウジ、シラミなどがいっぱいで『助けてくれ看護婦さん』『飯をくれ』『水をくれ』『家に返してくれ』等とあちらこちらで叫んでいた声を今でも思い出す。当時は看護婦として充分な看護もできずに悲しく、胸をちぎられる思いで泣く時もあった。傷の消毒や包帯交換をしてあげた時の患者の気持ちよさそうな目、壁にもたれてウトウトと安らかに眠っている顔が、昨日の事のように浮かんで忘れる事ができない。南部に移動してからは、ほとんど食物はなく、夕方になると食べ物探し、水汲みと生きるために精一杯だった。
◇宮里ツル 那覇市出身。 看護婦。
昭和13年、看護婦免許を取得した。上原貴美子(第一看護婦長)も一緒に受験し、共に合格を喜びあった。翌年より5ケ年間、熊本陸軍病院で勤務し、家事の都合で帰郷している時に保険婦の資格受験のための県主催保険婦養成講習会を受講し、昭和18年、保険婦試験に合格する。住所が糸満だったので、直ちに高嶺村の国民保健組合の保健婦として採用される。県衛生課長の千原成悟先生、長嶺愛子看護婦、長田ノリ(第一外科手術場婦長)や、地域の助産婦の指導を受け、家庭訪問や健康相談等をしていた。
昭和19年6月、陸軍病院伝染病科勤務となる。伝染病棟は那覇市樋川にあった開南中学校に設置され、病室は教室を利用し毛布を強いて臥床していた。患者は6、7名で消化器伝染病(アメーバ赤痢が多かった)だった。宿舎は病棟の近くで歩いて5分も掛からない理容店の二階に桐原婦長と二人で下宿していた。外科病棟は那覇市下泉町済生会那覇診療所(現バスターミナル近く)を使用していた。診療所は小さいながら手術室、病室(ベッド)等があり、比較的に整備されていた。宮崎婦長がアッペの手術で入院していたので見舞いに行った。
南風原国民学校に移ってからは数名の看護婦たちと公民館に宿泊した。銭湯は与那原まで歩いて行ったが脱衣所にシラミがいる事がわかり、その後はドラム缶を井戸端に置いて行水、洗濯をする事にする。勤務は朝6時出勤で、夜12時の帰宅、それから釣るべで水を汲み上げて身体を拭いたり洗濯を数人がするので、どんなに注意しても民家から騒々しくて眠れないと苦情が度々あった。
3月初め、姉の家族が北部疎開をするので同伴するよう依頼があり、勤務を一時休職し再び復職する予定だったが、結局疎開地(本部町大川)で終戦を迎える。
◇本永マサ 具志川村出身。 看護婦。
◆赤嶺芳子 南風原村出身。

看護婦。無口で真面目。南部伊原の第三外科壕でガス弾により戦死。

◆宇江城カメ 読谷村出身。

看護婦。文学少女。南部伊原の第三外科壕でガス弾により戦死。

◆上江洲ミツ 小禄村出身。

看護婦。愛情深く好感を持たれていた。壕外で戦死。

◆上地ヨシ 名護町出身。

看護婦。几帳面な人。南部伊原の第三外科壕でガス弾により戦死。

◆内間良子 与那城村出身。

看護婦。頭脳明晰。色白で立派な体格をし婦長補佐。東北辺りの方のように色白の大柄な綺麗な方で、よく気が利き看護婦、患者の面倒をよくみてくれていた。壕内で戦死。安谷屋ヨシ子の先輩。

◆国吉文子 那覇市出身。

看護婦。第一外科の国吉キヨ子は叔母に当たる。思いやりのある人。

◆宜野座フミ 真壁村出身。

看護婦。色白で丸顔のおとなしくて優しい人。

◆小波蔵マサ 首里市出身。

看護婦。明るい人。第三外科壕でガス弾のガス吸引で胸部疾患死去。

◆米須トミ 北谷村出身。

看護婦。とても細くて優しい人。南部で戦死。

◆潮平フミ 佐敷村出身。

看護婦。美人で明るい人。南部で戦死。

◆島袋ミツ子 那覇市出身。

看護婦。南部で他分室より転入。第三外科壕でガス弾により戦死。

◆福原ツル 糸満町出身。

看護婦。第三外科壕を脱出して山城付近の診療主任と同一壕で戦死。

◆宮城清子 浦添村出身。

看護婦。背が低く色白で肥っていた。無口で素直な性格は多くの患者、看護婦から好感を持たれていた。古川上等兵と井戸端で豚を解体しようとしていて直撃弾で戦死。

◆宮里文子 首里市出身。

看護婦。ポチャポチャして可愛い人だった。俘虜認識票により米国で戦死。

◆田原千代 具志川村出身。

看護婦。おとなしくていつも静かだった。第三外科壕でガス弾により戦死。

◆玉寄ノブ 東風平村出身。

看護婦。元気者で女優入江たか子に似て、たかちゃんの愛称。壕外で戦死。

◆中順千代 首里市出身。

看護婦。南風原で戦死第一号。通夜をして三角兵舎近くに埋葬。

◆野原秀 首里市出身。

看護婦。第三外科脱出。手が黒く腫れていた。その後、不明。

◆伊波春子 宜野湾村出身。

看護婦。糸数分室より脱出。第三外科壕でガス弾により戦死。

◇仲松文子 中城村出身。

看護婦。患者として第三外科壕と行動を共にした。

 
◆砂川マサ 宮古島出身。 雑仕婦。班長として仲良く皆をリードしていた。縮れ毛で大柄な真面目で優しい人。一升瓶の玄米を棒でつつきながら『息子が大学に行っているが卒業して帰って来るのが楽しみだ』といきいきと話していた。第三外科壕でガス弾により戦死。
◆奥松マヅル 那覇市出身。

雑仕婦。第三外科壕でガス弾により戦死。

◆城間ヨシ 南風原村出身。

雑仕婦。常に気配りをしていた。南部で戦死。

◆高良マヅル 那覇市出身。

雑仕婦。第三外科壕でガス弾により戦死。

◆高江洲春子 那覇市出身。

雑仕婦。十代で皆に可愛がられていた。第三外科壕では黙々と一人で虱を取っていた。ガス弾により戦死。





糸数分室


◇西平守正 今帰仁村出身。 軍医中尉。
◆大城幸雄 玉城村出身。

見習士官。玉城の開業医。第二外科より移る。玉城で戦死。

 
◆甲斐光義 宮崎県出身。 衛生伍長。
◆高嶺朝清 玉城村出身。

衛生一等兵。真面目で純な初年兵。南部第一外科壕で会った人がいる。

◆永吉盛繁 知念村出身。

衛生一等兵。小柄で真面目な初年兵。

◇上地清光 小禄村出身。 衛生一等兵。
◇奏富太 大分県出身。

衛生一等兵。

 
◆大城ヨシ子 玉城村出身。

看護婦。第二外科で勤務後、大城軍医と共に糸数分室へ。玉城で戦死。

◇玉城照子 那覇市出身。 看護婦。
5月10日頃、照子は家族(屋冨祖徳次郎、カメ、妹の香代子、涼子、従妹の八重子、看護婦の新垣美代、伊波春子)を連れて糸数分室に着いた。
糸数の壕は大きな自然壕で中には川も流れ、二階建ての茅葺きの家があった。大城軍医、西平軍医、一高女と女子師範の生徒たちも働いていた。若い人達はとても元気で勝利を信じているようだった。よく『勝利の日まで』を歌っていた。照子は3号室の勤務となる。3号室は大きな茅葺きの家を蚕棚のように二階にして、高さは大人が立っていられない位だった。その中に足の踏み場がない程沢山の患者が寝ていた。尿は3号室の近くにある大きな鍋の中に捨てていた。照子は宮城という女子師範生徒と一緒に働いていたが、ある日、尿を体にかけてしまい気持ちが悪くて危ないのも考えず二人で外に出て体を洗って来て、西平軍医に叱られる。飯上げは壕の外に出てお握りをもらって来た。
妹の香代子と従妹の八重子は1号室勤務となる。1号室には何百人ともいえる程の負傷者が苦しみの声を挙げていた。壕の中に1ケ所だけ丸い穴があいていて、そこから日の光が差している所があった。
◇神谷菊 那覇市出身。

看護婦。第二外科より移動。

◇知名信子 コザ市出身。 看護婦。






◇嘉手川マサ子 那覇市出身。 衛生材料科筆生。
1010日の大空襲は早朝からの波状攻撃。よもやこんなに散々になるとは思っていなかった。朝7時出勤。泉崎橋を渡って本部に到着後、橋は直撃され吹っ飛んだ。その後、敵機は本部を空襲、敵機からの機銃掃射で辻上等兵が戦死。筆生の儀間、富原、安谷屋、新嘉喜、譜久村、安里、嘉手川はやっと運動場下の洞穴を見つめ退避した。目の前の県立第二中に焼夷弾が投下され校舎は一瞬にして赤い炎に包まれ焼失した。夕暮れに全員、南風原に移動する事になる。真っ赤に燃え上がる那覇の市街を背に与儀、真和志と行軍、国場の上に来た時、病院車がマサ子たちを乗せてくれ一路南風原に向かう。暗闇の中、南風原国民学校へ到着。その夜は校舎の中央に筆生たちは車座になって一夜を明かす。翌日から病院は負傷患者が多く大変忙しくなった。薬室は新任の柳沢薬剤中尉が科長として赴任。20数名の科で、女子筆生はマサ子と安里恵美子で、とても大事にされた。暁部隊(陸軍船舶部隊)に勤務していた妹、テル子も庶務科に筆生で勤務する事になる。宿舎は近くの大城家で、そこに儀間、新嘉喜、安里、譜久村、マサ子とテル子が儀間先輩に従って居を共にした。
2月16日、父を残し病院船で熊本に疎開する。
◇嘉手川テル子 那覇市出身。 庶務科筆生。
十・十空襲の後、筆生として入隊し庶務室勤務となる。父は軍医として姉は薬剤室に勤務していた。看護婦の奥松文子、嘉手苅文子と同級生。
1月に入った頃、弾薬を積んだ汽車が爆発し、火傷の患者が大勢運ばれて来た。





  • 女子師範生と一高女の生徒が壕の奥の方で『なんた浜』を合唱。
  • 看護婦は敬礼する時、両手を腋の下に伸ばし、七分ほど腰を曲げた姿勢で行う。
  • 南風原野戦病院ではドラム缶の風呂で大勢だから大慌てでちょっとお湯をかけるだけだった。
  • 屋我地に癩病患者の収容施設、愛楽園があった。
  • 4人の一高女生が看護婦試験に合格していた。




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