沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲




創作ノート




福地曠昭著『オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦』より




  • 宇土国頭支隊長(大佐)、座間味の梅沢守備隊長、渡嘉敷の赤松大尉、久米島の鹿山隊長らは美貌な慰安婦を自分が投降するまで傍らにはべらせていた。
  • 宇土大佐には名護の料亭にいた『ヤナギチル』という女性が最後までついていた事は有名。本部陣地では3人の女性がかしづいていた。
  • 三中鉄血勤皇隊は宇土国頭支隊に編成される。
  • 昭和19年8月、宇土部隊約3000人が駐屯。伊豆味国民学校に本部を置く。将校専用の慰安所や兵隊たちの慰安所が伊豆味にできる。ほとんどが那覇の辻遊郭から連れて来られた女たちだったが、不足していたのか、軍の命令で朝鮮人慰安婦も連れて来られる。
  • 本部町字満名に『ピーヤー』とか『ペーターヤー』と呼んだ慰安所が設けられ、約10名の朝鮮人慰安婦が駐屯部隊を相手にとっていた。朝鮮人慰安婦は20代の若い女性たちで一日に25名の兵隊を相手にさせられ、軍主催の宴会で酌婦もさせられた。辺名地や並里にもあった。
  • 4月15日、宇土部隊は八重岳から多野岳に撤退する。
  • 浦添の安波茶には『見晴亭』、経塚に『観月亭』、安波茶に『軍人会館』と称する慰安所を開設。慰安婦の価格は兵が4円、下士官5円、将校6円。切符はどういう訳か慰安所一人に対し兵が2枚で下士官と将校は1枚。
  • 昭和19年7月頃から朝鮮人女性が那覇に姿を見せ始める。
  • 昭和19年末頃、那覇市松山小学校の隣、県立第二高女の側の検事正官舎が慰安所となり、数十人の朝鮮人慰安婦が入った。
  • 十・十空襲後、那覇港に上陸して来た慰安婦たちは住む家もなく、焼け跡の波上宮近くの辻原に三角兵舎風の茅葺きの掘っ建て小屋を建て『軍慰所』の看板を掲げ、一人で一日数十人をこなしていた。泊港に上陸した慰安婦たちは泊北岸にテント小屋を設け兵隊たちを相手にした。7080メートルの長い天幕に4つの入り口が作られ、兵隊たちが列をなした。このテントには4050人の朝鮮ピーがいた。また、山形屋百貨店の裏にもバラックが建ち、十数人の朝鮮人慰安婦が日本軍相手に昼間から肉体をひさいでいた。海岸に近い若狭にも4〜5人の慰安婦がいたという。台ノ瀬病院にも30人の朝鮮人慰安婦がいた。
  • 首里桃原町の安谷屋川付近と天久にも慰安所はあった。




 慰安所規則

  一、本慰安所は陸軍軍人、軍属(軍夫を除く)の他入場を許さず。入場者は慰安所外出証を所持する事。

  一、入場者は必ず料金を支払い、引き換えに入場券、サック1個を受け取る事。

  一、料金は左の如し。下士官、兵、軍属、金3円。

  一、入場券の効力は当日限り。

  一、指定された番号の室に入る事。但し時間は30分とする。

  一、室内において飲酒を禁ず。

  一、サック使用せざる者は接婦を禁ず。



  • 上玉はほとんど将校に取られ、兵隊用はブスばかり。
  • 辻遊郭は軍人軍属が横行し、遊女を巡る軍人同士の打ち合い斬り合いが毎晩のように起きた。三千の美妓を抱え、絃歌さんざめく紅燈の町辻遊郭は、かつては沖縄唯一の社交場で政治家の駆け引き所であり、商人の取引所であり、田舎から出張した村長や校長の宿泊所であり、男たちのオアシスと言われた。戦争の嵐は辻遊郭を血なまぐさい巷に変えた。たまに市民が登楼、彼女たちのつま弾く三味線の音に情緒を味わい、泡盛を酌み交わしていると日本刀をガチャつかせ、女を出せと暴れる軍服の大虎に市民は追い出された。各部隊は競って慰安所を設置し、1ケ所15人、1個連隊で2ケ所を設置、全駐屯部隊で500人の慰安婦を辻遊郭から狩り出した。
  • 玉城村の富里に2ケ所、船越に1ケ所、慰安所があった。
  • 昭和19年夏、武部隊が玉城村の国民学校を本部とする。12月から翌年の1月にかけて武部隊は台湾に移動する。入れ替わりに石部隊が来る。
  • 渡嘉敷島、座間味島はかつて、鰹節の生産場だった。



  • ズリの女‥‥‥慰安婦。
  • フルヤー‥‥‥古家。
  • 突撃一番‥‥‥衛生サック。
  • ウシヌヤー‥‥‥牛小屋。
  • チョシナー‥‥‥朝鮮人。




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