◆歩兵第22連隊の遺書
- 昭和14年9月、第22連隊は第11師団から第24師団に編入される。
- 昭和19年8月5〜6日、沖縄本島金武湾に上陸する。那覇上山国民学校の開洋会館に分宿して一日休養。
- 8月8日夜、第22連隊は北谷村屋良久得に向かう。読谷村にある北飛行場を中心とした中部地区一帯を守備。
- 12月、第9師団の抽出で、第22連隊は小禄村、豊見城村に移動。
- 3月9日、第32軍の師団長、連隊長、大隊長、幕僚級の大幅異動。第22連隊は連隊長の田中幸憲大佐が朝鮮軍教育隊長に転出、替わって台湾軍第9師団高級副官吉田勝中佐が補職される。
- 4月12日、第22連隊は第62師団の指揮下に入る。陣地配備は中城村南東台地の南上原に第1大隊(鶴谷義則少佐)、第3大隊(田川慶介大尉)は独立歩兵第12大隊の指揮下に入り宜野湾村我如古へ、第2大隊(平野茂男 少佐)は浦添村仲間に、連隊本部も西原村幸地に移る。
- 4月17日、第2大隊、棚原に後退。第1大隊と第2大隊は第24師団に復帰する。
- 4月19日、第3大隊は連隊本部と連絡が取れないまま運玉森(標高161m)を守っている。
- 4月23日、独立歩兵21大隊が守備する伊祖丘陵の頂上が敵に奪われる。
- 4月27日、第22連隊は第32連隊と協同して前面東方高地の奪回を命じられる。
- 5月5日、午後6時、全軍攻撃中止。総攻撃で第32軍は兵力の75%を失う。
- 5月22日、第32軍司令部は首里撤退を決断。第24師団は八重瀬岳−与座岳−国吉−真栄里を経て西海岸の名城に渡る線の確保を命じられる。
- 6月13日、第1、第2大隊は真栄里に布陣。第3大隊は第89連隊の指揮下に入り与座岳に出撃。この日、沖縄根拠地隊は玉砕。
◇兵営と兵隊
- 二十歳になった男子は4月〜5月頃、通知が届けられ、地域の集会所、小学校などで検査に臨み、翌年の1月10日、各地の連隊へと出頭し入営する。
- 入営初日、軍服支給後、昼食(赤飯、魚のお頭つき、みそ汁)。午後は宣誓式。
- 1個中隊は約200人の隊で、約40〜50人の小隊4個をもって編成。中隊長を務めるのは大尉か古参の中尉。
- 1個大隊は約800人、大隊3〜4個で1個連隊(約2000人)が編成される。
- 起床ラッパ『オキロヨ オキロ ミナオキロ オキナイトタイチョサンニシカラレル』
- 起床の後、布団を直し、軍服を着る。慌ただしく厠に行ったり洗顔を済ませたら営庭に集合。
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@ビンタ‥‥‥ |
平手ビンタ、拳骨ビンタがあり顔面を殴られる。 |
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A給水塔まわり‥‥‥ |
点呼に遅れたり動作が遅いと咎められた時は営庭の外れにある給水塔まで駆け足で往復させられる。片道300m位あり何回も繰り返された。 |
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B銃口のぞき‥‥‥ |
銃器の手入れが不十分だと銃口を上げてのぞいたままの姿で放っておかれた。
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Cバケツ挙げ‥‥‥ |
掃除のやり方にミスがあると水を入れたバケツを頭の上に乗せて不動の姿勢を長時間とらされた。
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D食事抜き‥‥‥ |
食事係が配膳などで不始末をした時は食事を抜かれる事もあった。
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E食缶かぶり‥‥‥ |
食缶の大きなバケツを頭から被らせ、大しゃもじで殴る。食缶や食器などの洗い方がよくないとこうなる。
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Fせみ‥‥‥ |
内務班の柱に両手両足でしがみつき、ミーンミーンと鳴かされる。
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- 休日外出して夕食までに帰らないと営倉に入れられた。
- 兵営には表門(営門)と裏門がある。それぞれに歩哨がいる。営門から入って右手に衛兵所、営倉が見える。左手には菊の御紋章を掲げた連隊本部があり、その奥に営庭が広がっている。営庭付近に兵舎が立ち、その回りに洗顔洗濯場、物乾場、厠、医務室、風呂、炊事場などがある。銃工場、鍛工、靴工、木工、鞍工、蹄鉄工、被服工などもある。下士官集会所(下士集)、将校集会所といった建物、被服庫、兵器庫、火薬庫などの倉庫、訓練のための体操場、射撃場、馬場、廐舎などもある。兵舎内には内務班の他に中隊長室、中隊事務室、将校室、下士官室、学科室、予備室、酒保、物置などがあった。
- 口径が12mm以上の兵器が大砲。口径が155mm以上、重量8トン以上の大砲を重砲と呼ぶ。
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