沖縄の酔雲庵




  チーコの青春日記   チーコです、よろしく 

   あの頃を思い出しながら書いてみます



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 昭和20年(1945年)3月24日


3月23日の朝、空襲警報が鳴り響きました。いよいよ敵の攻撃が始まりました。

港川方面に艦砲射撃が始まったのです。私たちは防空壕に避難して、急遽、注射の打ち方を教わりました。

そして、24日の夜中に、連絡を受けて駈けつけていらした与那覇先生の引率で富盛にある第24師団(山部隊)の第一野戦病院へと向かいました。

ぼんやりと半月が出ていた空に照明弾が上がって昼間のように明るくなりました。

不気味な音が鳴り響いて、花火のような艦砲も撃ち上げられて、どこに落ちたのかわからないけど地響きが伝わって来ます。

生きた心地もなく、冷や冷やしながらサトウキビ畑の間の道を南へと進んで行きました。

だんだんと生まれ故郷の那覇から離れて行って、戦場の真っ只中に連れて行かれるようで、心細くて恐ろしい思いでした。



艦砲射撃の歴史  女子挺身隊の記録  忘れないあのこと、戦争  わが回想の記  東京大空襲  語り伝える空襲(第2巻)
 昭和20年(1945年)3月21日


硫黄島が玉砕したと聞かされたのは21日頃だったと思います。

その頃は詳しい事は知りませんでしたが、2月19日にアメリカ軍は硫黄島に上陸して、激しい戦闘の末、3月17日に日本軍は玉砕しました。日本軍は20,933人の守備兵のうち20,129名が戦死し、アメリカ軍は6,821人の兵が戦死したといわれています。

敵のアメリカはいよいよ日本に近づいてきました。北上して本土を攻めるのか、西に向かって沖縄を攻めるのかわかりませんでしたが、戦争がすぐ間近に迫って来ているのは確かでした。

恐ろしいと思いながらも、私たちもお国のために玉砕覚悟で戦わなければならないと決意を新たにしました。


硫黄島  十七歳の硫黄島  栗林忠道  栗林忠道硫黄島からの手紙  硫黄島からの手紙  父親たちの星条旗
 昭和20年(1945年)3月18日


18日の日曜日、私たちに外出許可が出ました。

先週は日曜日も関係なく、いつもの日課をこなしたので、久し振りの休日です。みんな、大喜びして家族に会いに出掛けました。

私も家族に会いたかったけど、父親は日曜も休まず、県庁で仕事をしいて会えないかもしれないし、姉は陸軍病院にいて、会えるかどうかわからない。もしかしたら、弟に会えるかもしれないし、おばあちゃんにも会いたいので、首里に帰る友達と一緒に、首里に行きました。本当は安里先輩に会えるかもしれないと密かに期待していました。

南風原の陸軍病院の前を通ったけど、残念ながら姉や叔母には会えませんでした。南風原から首里にかけて大勢の兵隊さんが行き来していて、何となく慌しくて、戦争が近づいて来ているというのがひしひしと感じられました。

もしかして、疎開して誰もいないかもしれないと思いましたが、おばあちゃんはいました。従姉の陽子ちゃんとも会えました。

記念運動場で作業していた弟の康栄とも会え、そして、安里先輩とも会えました。ほんの少しの時間だったけど、安里先輩と話ができて、本当に嬉しかったです。


咲元 首里城獅子丸  龍柱 かりゆしウェア  熟成古酒 瑞泉 一升甕  シーサーペア
 昭和20年(1945年)3月10日


看護教育隊での忙しい毎日が続きましたが、3月10日の午後、楽しい演芸会が開かれました。この日は陸軍記念日でした。日露戦争で日本が勝利した日で、当時は祝日になっていました。

班長の米田軍曹さんから「無礼講だから女学校で習った歌や流行歌を歌ってもよろしい」と言われたので、私たちはウキウキしながら何を歌おうかみんなで相談しました。

第二内務班の班長、高森伍長さんの司会で演芸会は始まりました。最初に登場したのは吉田上等兵さんで、「誰か故郷を想わざる」を歌いました。次に正善上等兵さんが「燦めく星座」を歌いました。三番目は沖縄出身の大城一等兵さんで、三線を弾きながら「てぃんさぐぬ花」を歌いました。三線の音を聴くのは久し振りだったので、本当に懐かしく感じました。

その後、第一内務班から順番に歌いました。第一内務班は「愛国行進曲」を、第二内務班は「蘇州夜曲」を、第三内務班は「加藤隼戦闘隊」を歌いました。

そして、いよいよ私たち第四内務班の番です。私たちは「新雪」を歌いました。その時、私たちは知りませんでしたが、山部隊の兵隊さんたちは北海道、富山県、長野県出身の人が多く、皆、雪深い故郷の事を想って、しんみりと聴いていたとの事でした。

看護婦さんたちも「愛国の花」を歌って、最後に大城一等兵さんが三線を持って出て来て、「唐船ドーイ」を歌い、みんなでカチャーシーを踊りました。

あの恐ろしい戦争が始まる前の楽しいひと時でした。


流行歌と映像で綴る懐かしの昭和  決定盤 戦時歌謡大全集  灰田勝彦大全集  決定版 沖縄の民謡・島唄
 昭和20年(1945年)3月6日


3月6日のおひるに私たち二高女の四年生は軽便鉄道の国場駅に集合しました。校長先生の訓示を聞いた後、金城先生と与那覇先生に引率されて、東風平(こちんだ)へ向けて行進しました。

皆、お国のために働けると目を輝かせて、歌を歌いながら東風平に向かいました。

東風平の国民学校が看護教育隊の宿舎になっていて、私たち松組は第四内務班と呼ばれ、班長は米田軍曹さんでした。二高女の他にも積徳(せきとく)高女の生徒たちが五、六十人来ていて、第一内務班から第三内務班になって、男子の初年兵も二十人位いて第六内務班になりました。

起床は5時、5時半に朝礼をして、6時半から7時半までが朝食時間、8時から12時まで午前中の看護教育があって、12時から1時までが昼食時間、午後の看護教育は5時までで、5時から6時までが夕食時間、夕食後は自由時間で、8時に点呼(てんこ)があって、9時に消灯という厳しくて、忙しい毎日が始まりました。


日本陸軍がよくわかる事典  国民軍の神話  兵隊たちの陸軍史  戦争案内  太平洋戦争下の学校生活  戦場体験
 昭和20年(1945年)3月4日


3月6日から私たち二高女の四年生は東風平(こちんだ)にある山部隊の看護教育隊に入隊する事に決まって、4日の日曜日に友達と一緒に黒砂糖の買い出しに行きました。

その日は空襲警報も鳴らず、いい天気でした。帰りに南風原(はえばる)の陸軍病院の前を通った時、偶然に姉と再会する事ができました。看護教育隊に入ってしまえば姉に会うことも難しくなるので、その前に会えてよかったと天に感謝しました。

そして、家に帰ると弟の康栄と安里先輩が小屋の屋根の修理をしていました。安里先輩にも会えるなんて、今日はなんていい日なんだろうとほんとに感謝しました。

安里先輩と本の交換をして、文学の話もしました。小説家志願の安里先輩は色々な本を読んでいて、夏目漱石、森鴎外、泉鏡花、島崎藤村、中里介山、芥川龍之介、吉川英治、尾崎士郎、江戸川乱歩、久生十蘭、岡本綺堂、野村胡堂など、作家とその作品の名が次から次へと口から飛び出して来ました。

安里先輩から、「どんな小説が好きですか」って聞かれて、吉屋信子って言おうとしたけどやめて、読みかけだった「風と共に去りぬ」のマーガレット・ミッチェルと言いました。敵国の作家の名前を言ったので、安里先輩は驚いたようでしたけど、「さすがですねえ。あれは名作です」と言ってくれました。

ほんとにほんとに、楽しいひと時でした。


ザ・漱石(上巻)大活字版  森鴎外集  泉鏡花 / 婦系図  島崎藤村 / 破戒  中里介山 / ザ・大菩薩峠  ザ・龍之介大活字版

吉川英治 / 宮本武蔵(1)  江戸川乱歩全集(1)  岡本綺堂 / 半七捕物帳(1)  野村胡堂探偵小説全集  吉屋信子 / わすれなぐさ  マーガレット・ミッチェル / 風と共に去りぬ(5)

昭和20年3月の出来事

3月1日 沖縄県立第二中学校生徒の一部、《球7071宇土部隊》へ入隊する。
3月1日 大本営、《天1号》航空作戦計画を決定する(《航空作戦に関する陸海軍中央協定》)。
3月1日 米艦載機60機、宮古島を襲撃し、大建丸と豊坂丸が撃沈される。平良町民は市の郊外へ移動する。
3月1日 たばこ値上げ。朝日が70銭から90銭に、金鵄が23銭から35銭へ、光が45銭から60銭になる。
3月2日 ルーマニア、対日宣戦を布告する。
3月2日 農商務省、不正な配給を受ける幽霊人口が約100万人いると推定する。その後不正受配の全国調査を実施する(3月20日)。
3月5日 沖縄の学童や一般老幼女子の県外疎開が打ち切られる。
3月6日 《国民勤労動員令》が公布される(国民徴用令・国民勤労協力令・女子挺身勤労会・労務調整令・学校卒業者使用制限令の5勅令を廃止・統合)。
3月6日 沖縄県、満15〜45歳の男女、全員現地招集。
3月6日 沖縄県立第二高等女学校4年生55人、東風平国民学校に本部を置く24師団陸軍病院看護教育隊(山3486廉嵎隊)に入隊。看護教育始まる。
3月7日 海軍作戦部長、沖縄本島北・中飛行場の確保を要請する。
3月9日 米機B29、翌日にかけて東京を大空襲する(23万戸焼失。死傷者12万人、下町地区焼失)。
3月10日 第32軍司令官、伊江島飛行場の破壊を命じる。
3月10日 明治座、浅草国際劇場、国民新劇場が空襲焼失。
3月13〜14日 中座、文楽座、角座が空襲焼失。
3月14日 沖縄攻略の米軍先陣第58機動部隊、ウルシー島を発進する。
3月14日 米機B29、大阪を空襲する(13万戸焼失)。
3月15日 大都市の母子学童に疎開強化。
3月17日 硫黄島の日本軍守備隊、玉砕する(戦死23000、生存者212。米軍の死傷行方不明者24857)。
3月18日 閣議、《決戦教育措置要綱》を決定する(国民学校初等科以外の授業を4月から1年間停止する)。
3月18日 米第58機動部隊、沖縄攻略の前哨戦として九州、瀬戸内海方面の日本軍基地を攻撃する(九州沖航空戦始まる)。
3月18日 白梅隊、最初で最後の外出許可。
3月19日 第6航空軍、連合艦隊司令長官の指揮下に入る。
3月20日 大本営、《当面の作戦計画大綱》を発令し、沖縄作戦に重点を置くことを決定する
3月21日 小磯首相、最高戦争指導会議懇談会で繆斌を通じての日華和平実行案を提議する。これに対し重光葵外相が反対する。
3月23日 米機動部隊、沖縄本島の爆撃を開始する
3月23日 午前7時、第32軍は空襲警報を発令。警報は夕刻まで続く。
3月24日 午前9時、米軍の戦艦以下30隻は南部地区に艦砲射撃を開始する。
3月24日 沖縄県立第二高女生徒、看護隊として富盛にある第24師団第1野戦病院(山3486部隊)へ入隊する(白梅部隊)
3月24日 私立積徳高女生徒55人、従軍看護婦として第24師団(第2野戦病院)に配属される
3月24日 師範・各中学校の男生徒を鉄血勤皇隊および通信隊、女生徒を補助看護婦として部隊に配属する(〜4月5日)。
3月25日 女師・一高女生徒、南風原陸軍病院に動員される(ひめゆり部隊)
3月25日 沖縄県庁、那覇から首里へ移動、真和志村繁多川に地下壕を掘り戦時行政を始める
3月25日 米軍、沖縄本島および慶良間列島への艦砲射撃を開始する。艦砲射撃の合間を縫って老幼婦女子の北部疎開が相次ぎ、主要道路は混乱する。
3月25日 座間味諸島で島民の集団自決あいつぐ(〜28日、358名)。
3月26日 ブルース少将の率いる米第77歩兵師団、慶良間列島の阿嘉島、慶留間島、座間味島へ上陸する。座間味島の住民172人が集団自決する。
3月26日 連合艦隊、第10方面軍《天1号》作戦を発動する。
3月26日 米合同遠征部隊第51機動部隊司令官ターナー海軍中将、南西諸島海軍軍政府首席軍政官に任命される。
3月26日 ローリングス提督指揮下の英第57機動部隊が先島地区を砲撃する。
3月26日 米第77歩兵師団により慶良間列島に最初の軍政府(陸・海合同)が設置される。
3月26日 米太平洋艦隊司令長官兼南西諸島軍政長官ニミッツ元帥、《海軍軍政府布告第1号》を公布し、慶良間列島における日本政府のすべての行政権を停止する。
3月26日 慶良間列島に秘匿されていた日本軍の海上挺進特攻艇は壊滅状態になる。
3月26日 沖縄県出身の伊舎堂用久大尉の率いる特別攻撃隊誠飛行隊の10機、八重山の白保基地から慶良間列島近海沖の米艦隊に《特攻》攻撃をかける。
3月26日 県立第三中学校生徒363人、県立農林学校生徒173人、県立工業学校生徒94人、私立開南中学校生徒81人、第32軍に動員され、それぞれ《鉄血勤皇隊》を編成して守備軍各部隊に配置される
3月26日 一家が空腹に耐え兼ね、継母が娘を殺害し、その肉を食べる事件が群馬県で発生。
3月27日 米軍、渡嘉敷島に上陸する。久場島・安室島・阿波連島が攻略される。
3月27日 慶留間島で約40人の住民が縄で首を締めて集団自決する。
3月27日 沖縄県立水産学校の職員の職員・生徒22人、第32軍の命を受けて《鉄血勤皇隊》を編成し、第32軍通信隊に配属される。
3月28日 県立首里高女生徒61人、従軍看護婦として第62師団野戦病院に配属される
3月28日 県立昭和高女生徒17人、従軍看護婦として第62師団野戦病院に配属される
3月28日 沖縄師範学校男子部生徒386人(教官も含む)は第32軍の命令により《鉄血勤皇隊》を編成し、第32軍司令部の直属隊として配属される
3月28日 那覇私立商業学校生徒99人、第32軍に動員されて《鉄血勤皇隊》を編成し、第44旅団通信隊および他の部隊に配属される
3月28日 渡嘉敷島で約400人の住民が、手榴弾、鎌、鍬などで集団自決する
3月29日 米機動部隊、沖縄本島への艦砲射撃を強める(1日約1000発)。
3月29日 県立第一中学校生徒371人および県立工業学校生徒数人、第32軍の命令で《鉄血勤皇隊》を編成し、配下の各部隊に配属される
3月29日 沖縄師範学校女子部生徒、県立第一高女生徒、南風原陸軍病院兵舎内で卒業式を行う。
3月30日 米艦隊、港川方面に対し夜半から砲撃を開始する。
3月30日 運天港の日本軍魚雷艇基地、米軍機200機の攻撃を受け壊滅する
3月30日 牛島第32軍司令官、沖縄本島北・中飛行場の滑走路の破壊を命じる。
3月30日 宮古島は空襲を受け、女学校・無線受信所・測候所などに被害を受ける。
3月31日 米軍、慶良間列島の占拠を公式に宣言する
3月31日 米第420野戦砲兵隊2個大隊、慶伊瀬島(チービシ)に上陸し、155ミリカノン砲(ロング・トム)16門を設置して、首里・那覇を砲撃する。
3月31日 第32軍司令部、老幼婦女子の北部疎開停止を命じる。

 昭和20年(1945年)2月15日


看護教育が続いていた2月の半ば、校長先生から二高女の四年生は山部隊(第二十四師団)の野戦病院に入隊する事に決まったと発表がありました。

山部隊は一時、二高女に駐屯していた事があって、十・十空襲の後も学校の焼け跡の片付けをしてくれたので馴染みのある部隊でした。去年まで嘉手納周辺の守りを固めていましたが、武部隊(第九師団)が台湾に出て行ってしまったので南部の島尻に移って来ました。

二高女と積徳高女が山部隊に入隊して、南風原の陸軍病院には師範学校女子部と一高女が入隊する事になりました。首里高女と昭和高女は首里周辺を守っている石部隊(第六十二師団)の野戦病院に、名護の三高女は陸軍病院の北部分室に、というように女学校の四年生は皆、従軍看護婦になる事に決められました。戦後になって、二高女は白梅学徒隊と呼ばれ、積徳高女は積徳学徒隊、師範学校女子部と一高女はひめゆり学徒隊、首里高女はずいせん学徒隊、昭和高女はでいご学徒隊、三高女はなごらん学徒隊と呼ばれるようになりました。

それと同時に、戦闘訓練や通信訓練を受けていた男子中学生は防衛隊を編成して、戦争が始まれば鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)となって各部隊へ入隊する事に決まりました。

いよいよ、私たちも看護婦になってお国のために働けるんだと喜びましたが、実際問題として、私たちに怪我をした兵隊さんたちの看護ができるのだろうかと不安でいっぱいになりました。


ひめゆりたちの沖縄戦  ひめゆりの塔学徒隊長の手記  ひめゆりの沖縄戦  ずいせん学徒の沖縄戦  沖縄一中・鉄血勤皇隊の記録(上)  沖縄一中・鉄血勤皇隊の記録(下)
 昭和20年(1945年)2月8日


その日は大詔奉戴日でした。看護教育が始まる前に、新しく校舎になった知事官舎の庭で式典が行なわれました。

いつものように式典が続いて、みんなで「海ゆかば」を歌いました。いつもなら、それで終わりになるのに、その日は校長先生が再び、台上に上がって皆の顔を見回しました。校長先生の顔色は悪く、何か悪い事でも起きたのかしらと胸騒ぎがしました。

2月6日の昼過ぎに久米島から那覇に向かっていた客船「嘉進丸」が敵の襲撃を受けて沈没したと校長先生はおっしゃいました。その船に私たちの同級生の久美さんも乗っていて、亡くなってしまったのです。

久美さんは十・十空襲の後、久米島に帰っていて、私たちは何度も手紙を出して、戻って来いって言いました。手紙なんか書かなければよかったと自分たちを責めて泣き続けました。

その日の授業は悲しみのあまり、まったく頭に入りませんでした。

昭和20年2月の出来事

2月1日、宮古島の第28師団参謀長福地春男少将、在南支第23軍参謀長に転じ、後任に一瀬寿大佐が発令される。
2月3日、《台湾及南西諸島方面作戦に関する陸海軍中央協定》が結ばれる。
2月3日、沖縄県下の学徒動員が強化され、通信・観測・看護婦などの特別訓練が実施される。
2月3日、米軍、マニラ市内に侵攻する。
2月4日 米・英・ソの首脳(ルーズベルト・チャーチル・スターリン)、ヤルタで会談を開く(対独戦後処理、ソ連の対日参戦を協議)。
2月7日、第32軍参謀長、沖縄県庁を訪れ、緊急に6カ月分の住民の食糧を確保すること、ならびに本島中・南部地区の住民を北部地区に疎開させることを島田知事に要請する。
2月7日、沖縄県、平時行政から戦時行政へ切り換える。
2月7日、第28師団の新参謀長一瀬寿大佐、広島から宮古島へ着任する。
2月10日、県立第二中学校で緊急市町村会議が開かれ、第32軍の木村参謀が米機動部隊の沖縄来攻見通しについて公式に発表する。
2月10日、沖縄県中南部住民の北部疎開計画決定。
2月11日、沖縄県、人口課を新設し県内外の人口移動業務に当たらせる。
2月11日、米・英・ソ、ヤルタ協定成立。ソ連、対日参戦を決定。
2月12日、牛島第32軍司令官、海上挺進基地大隊の改編を命じる。
2月12日、宮古島の全守備部隊に迎撃戦闘準備令が下される。
2月15日、米機動部隊の接近により宮古島の守備隊司令部、野原越に移動する。
2月15日、第32軍、《戦闘指針》を沖縄県下の軍民に示達する(《1機1艦船、1艇1船、1人10殺1戦車》が標語となる)。
2月15日、沖縄県下に市町村単位の国土防衛義勇隊が編成される。
2月15日、那覇市役所、真和志村の安里八幡宮近くの民家に移転する。
2月15日、女師・一高女生徒に南風原陸軍病院での看護実施訓練始まる。
2月16日、米機動部隊、艦載機延約1200機をもって関東、東海地方を攻撃する。
2月19日、米軍、硫黄島に上陸する。米軍75000、日本軍23000。
2月19日、沖縄県下男女中等学校単位の防衛隊の結成が始まる。
2月20日、B29、100機、東京を空襲。
2月22日、東京に二・二五事件以来の大雪。
2月25日、米機動部隊、東京および八丈島を攻撃する。
2月26日、B29、130機、東京を空襲。
2月、   台湾の陸軍第9飛行師団、石垣島白保に駐留する。
2月、   島田知事、決戦施策の三大目標(国土防衛の強化・食糧自給の達成・自主輸送の確立)を発表。
2月、   沖縄本島の全学校の《御真影》を北部の稲嶺国民学校に移す。
2月、   沖縄県学務課、県下男女中学校単位の防衛隊組織を決定。
2月、   沖縄県の官公吏や教員の県外疎開続出。
2月、   飯米配給の停止・減配を行う。


生と死・いのちの証言沖縄戦  沖縄戦の真実と歪曲  久米島の民俗文化  あの戦争を伝えたい  戦時艦船喪失史  満天の星  
 昭和20年(1945年)2月6日


1月22日の空襲で、二高女の仮校舎だった若狭町のお菓子工場も焼け落ちてしまって、授業は中断してしまいました。

2月になって、松尾山にある知事官舎が仮校舎に決まりました。知事官舎は前の知事さんがいなくなってから空き家になっていて、新しく来られた島田知事さんのために綺麗にしたんだけど、島田知事さんは食糧営団の理事長さんのお宅を宿舎にする事になって、二高女で借りる事になりました。

そして、2月5日から看護教育が始まりました。男子中学生たちは立派な兵隊になるために通信訓練や戦闘訓練を始めていて、女学生も立派な看護婦になって、お国の役に立たなければならないというわけです。

看護婦と聞いて、私は喜びました。姉や浩子おばさんと同じように陸軍病院の看護婦になれるんだと思うと感激でした。

私たち松組はその日は作業日だったので、6日から看護教育が始まりました。教官は南風原の陸軍病院から派遣された野口少尉さんと鮫島軍曹さんでした。野口少尉さんは東京の人で、背がスラッと高くて格好いい青年将校でした。鮫島軍曹さんは鹿児島の人で、体つきはごっついけど優しそうな顔をしていました。

昭和20年2月の出来事

2月1日、宮古島の第28師団参謀長福地春男少将、在南支第23軍参謀長に転じ、後任に一瀬寿大佐が発令される。
2月3日、《台湾及南西諸島方面作戦に関する陸海軍中央協定》が結ばれる。
2月3日、沖縄県下の学徒動員が強化され、通信・観測・看護婦などの特別訓練が実施される。
2月3日、米軍、マニラ市内に侵攻する。
2月4日 米・英・ソの首脳(ルーズベルト・チャーチル・スターリン)、ヤルタで会談を開く(対独戦後処理、ソ連の対日参戦を協議)。
2月7日、第32軍参謀長、沖縄県庁を訪れ、緊急に6カ月分の住民の食糧を確保すること、ならびに本島中・南部地区の住民を北部地区に疎開させることを島田知事に要請する。
2月7日、沖縄県、平時行政から戦時行政へ切り換える。
2月7日、第28師団の新参謀長一瀬寿大佐、広島から宮古島へ着任する。
2月10日、県立第二中学校で緊急市町村会議が開かれ、第32軍の木村参謀が米機動部隊の沖縄来攻見通しについて公式に発表する。
2月10日、沖縄県中南部住民の北部疎開計画決定。
2月11日、沖縄県、人口課を新設し県内外の人口移動業務に当たらせる。
2月11日、米・英・ソ、ヤルタ協定成立。ソ連、対日参戦を決定。
2月12日、牛島第32軍司令官、海上挺進基地大隊の改編を命じる。
2月12日、宮古島の全守備部隊に迎撃戦闘準備令が下される。
2月15日、米機動部隊の接近により宮古島の守備隊司令部、野原越に移動する。
2月15日、第32軍、《戦闘指針》を沖縄県下の軍民に示達する(《1機1艦船、1艇1船、1人10殺1戦車》が標語となる)。
2月15日、沖縄県下に市町村単位の国土防衛義勇隊が編成される。
2月15日、那覇市役所、真和志村の安里八幡宮近くの民家に移転する。
2月15日、女師・一高女生徒に南風原陸軍病院での看護実施訓練始まる。
2月16日、米機動部隊、艦載機延約1200機をもって関東、東海地方を攻撃する。
2月19日、米軍、硫黄島に上陸する。米軍75000、日本軍23000。
2月19日、沖縄県下男女中等学校単位の防衛隊の結成が始まる。
2月20日、B29、100機、東京を空襲。
2月22日、東京に二・二五事件以来の大雪。
2月25日、米機動部隊、東京および八丈島を攻撃する。
2月26日、B29、130機、東京を空襲。
2月、   台湾の陸軍第9飛行師団、石垣島白保に駐留する。
2月、   島田知事、決戦施策の三大目標(国土防衛の強化・食糧自給の達成・自主輸送の確立)を発表。
2月、   沖縄本島の全学校の《御真影》を北部の稲嶺国民学校に移す。
2月、   沖縄県学務課、県下男女中学校単位の防衛隊組織を決定。
2月、   沖縄県の官公吏や教員の県外疎開続出。
2月、   飯米配給の停止・減配を行う。


あゝひめゆりの塔  赤い天使  ひめゆりの塔学徒隊長の手記新装版  従軍看護婦物語  ニューギニア軍医戦記  台湾人従軍看護助手と日本人軍医

従軍追憶の道  戦場に於ける看護日誌  僕は少年通信兵だった
 昭和20年(1945年)1月31日


沖縄に新しい知事さんがやって来ました。後に「沖縄の島守」と呼ばれる島田(あきら)知事さんです。

前の知事さんは去年の暮れに出張と称して本土に帰ってしまいました。当てにならない知事さんなんか用はないって、沖縄の人たち言っていましたが、知事さんに続けと本土出身の県庁の偉い人たちがみんな、沖縄を去ってしまい、沖縄出身の議員さんたちまで、何だかんだと理由をつけて沖縄から出て行ってしまいました。

県庁に勤めていた父は毎日、情けないと愚痴ばかりこぼしていました。新しい知事さんが任命されるはずだけど、戦場になるかもしれない沖縄に来てくれる知事さんなんていないだろうって言っていました。

きっと、誰かが来てくれるわよって、私は父を励ましましたが、私も命を懸けてまで沖縄に来てくれる知事さんなんていないかもしれないと思っていました。

ところが、1月31日、新しい知事さんがやって来ました。その日、私たちは作業をしていましたが、ブラスバンド部員は急遽、県庁に行くようにと言われて、どこから集めたのか楽器を借りて、知事さんを歓迎するために演奏をしました。

チラッとしか見られませんでしたが、新しい知事さんは背が高くて頼もしく感じられました。愚痴ばかりこぼしていた父も、島田知事さんが来てからは、「ほんとに偉いお人だ」とやたらと褒めて、毎日、楽しそうに出勤して行きました。

昭和20年1月の出来事

1月1日、米誌『タイム』、日本製風船爆弾が太平洋を越えてモンタナ州に落下したと報じる。
1月3日、米艦載機、台湾・奄美・宮古・八重山・沖縄本島を攻撃する。
1月5日、米艦隊、小笠原および硫黄島を砲撃する。
1月7日、第32軍、士気昂揚大会を開催する。
1月9日、米軍、ルソン島に上陸する。
1月10日、第9師団、沖縄からの移動を終え第10方面軍の戦闘序列に編入される。
1月10日、第32軍司令部、安里の蚕種試験場から首里の沖縄男子師範学校付属国民学校に移転する。
1月12日、島田叡大阪府内政部長、沖縄県知事に任命される(泉知事は香川県へ転出)。
1月13日、東海地方に大地震(三河地震。死者1961人、全半壊17000戸)。
1月16日、宮古島駐留の第28師団の新師団長として納見敏郎中将が台湾から着任する。
1月18日、最高戦争指導会議、《今後採るべき戦争指導大綱》を決定する(本土決戦即応態勢の確立など)
1月20日、閣議、《沖縄県防衛強化実施要綱》を決定する。
1月21日、米機動部隊、台湾と南西諸島を襲撃する。
1月21日、米艦載機56機、宮古島を空襲し船舶・陸上施設に損害を与える。
1月22日、米艦載機延約900機、奄美・宮古・八重山・沖縄本島を攻撃する。
1月22日、大本営、第32軍に対し第84師団の編入を電報で内報する。
1月22日、空襲で女師・一高女の図書館・寮・校舎の一部が破壊され、生徒4名が生き埋めになる。
1月23日、大本営、海上輸送の危険と本土兵力の不足を理由に第84師団の沖縄派遣を中止する。
1月23日、女師・一高女、寄宿舎足りず、離島を除き、下級生は帰郷させ、通学可能の上級生は家から通わせる。
1月25日、最高戦争指導会議、《決戦非常措置要綱》を決定する(軍需生産の増強、生産防衛体制を強化)
1月25日、首里高女は石部隊(第62師団)の野戦病院に配属される事となり、学校で軍の教育を受ける。
1月26日、第32軍司令官、沖縄本島の配置変更を配下部隊に通達する。
1月26日、軍・公務要務者以外、京浜地区通過・着の乗車券発売を禁止。
1月27日、大本営、南方軍の任務を変更する(本土決戦が第一義、南方軍の作戦は第二義となる)。
1月27日、県庁の各部課を城岳および与儀周辺に分散移転する。
1月27日、野口雨情(62)没。
1月27日、B29、70機都心を爆撃。本土空襲本格化する。
1月31日、沖縄県の新知事島田叡が着任する。
1月31日、第32軍、第2次現地防衛招集を実施する(満17歳から45歳までの男子)。


沖縄の島守  語り伝える沖縄(第5巻)  平和博物館・戦跡ガイド(3)  図説沖縄の戦い  激動の昭和史 沖縄決戦  
 昭和20年(1945年)1月22日


昭和20年のお正月はB29の襲来で始まりました。被害はありませんでしたが、空襲警報が何度も鳴って、元旦を祝う事もできませんでした。

2日は何事もなくて安心していたら、3日、4日と敵機が襲撃して来て、飛行場と港が爆撃されました。近いうちに大きな空襲があるに違いないと疎開する人たちが増えました。

1月21日の日曜日、私は友達と一緒に大里村まで黒砂糖の買出しに出かけました。お昼頃、空襲警報が鳴って、私たちは南風原にできた陸軍病院の防空壕に避難しました。その日も飛行場と港が爆撃を受けました。

そして、次の日です。朝早くから空襲警報が鳴り響いて、敵機が襲撃して来ました。私は父と一緒に城岳(ぐすくだけ)の下にある県庁の防空壕に逃げました。

その日の空襲はしつこく、日が暮れるまで一日中続いて、敵は8回もやって来ました。十・十空襲の時に無事だった家々もやられてしまい、那覇の街は再び、メチャメチャになってしまいました。

昭和20年1月の出来事

1月1日、米誌『タイム』、日本製風船爆弾が太平洋を越えてモンタナ州に落下したと報じる。
1月3日、米艦載機、台湾・奄美・宮古・八重山・沖縄本島を攻撃する。
1月5日、米艦隊、小笠原および硫黄島を砲撃する。
1月7日、第32軍、士気昂揚大会を開催する。
1月9日、米軍、ルソン島に上陸する。
1月10日、第9師団、沖縄からの移動を終え第10方面軍の戦闘序列に編入される。
1月10日、第32軍司令部、安里の蚕種試験場から首里の沖縄男子師範学校付属国民学校に移転する。
1月12日、島田叡大阪府内政部長、沖縄県知事に任命される(泉知事は香川県へ転出)。
1月13日、東海地方に大地震(三河地震。死者1961人、全半壊17000戸)。
1月16日、宮古島駐留の第28師団の新師団長として納見敏郎中将が台湾から着任する。
1月18日、最高戦争指導会議、《今後採るべき戦争指導大綱》を決定する(本土決戦即応態勢の確立など)
1月20日、閣議、《沖縄県防衛強化実施要綱》を決定する。
1月21日、米機動部隊、台湾と南西諸島を襲撃する。
1月21日、米艦載機56機、宮古島を空襲し船舶・陸上施設に損害を与える。
1月22日、米艦載機延約900機、奄美・宮古・八重山・沖縄本島を攻撃する。
1月22日、大本営、第32軍に対し第84師団の編入を電報で内報する。
1月22日、空襲で女師・一高女の図書館・寮・校舎の一部が破壊され、生徒4名が生き埋めになる。
1月23日、大本営、海上輸送の危険と本土兵力の不足を理由に第84師団の沖縄派遣を中止する。
1月23日、女師・一高女、寄宿舎足りず、離島を除き、下級生は帰郷させ、通学可能の上級生は家から通わせる。
1月25日、最高戦争指導会議、《決戦非常措置要綱》を決定する(軍需生産の増強、生産防衛体制を強化)
1月25日、首里高女は石部隊(第62師団)の野戦病院に配属される事となり、学校で軍の教育を受ける。
1月26日、第32軍司令官、沖縄本島の配置変更を配下部隊に通達する。
1月26日、軍・公務要務者以外、京浜地区通過・着の乗車券発売を禁止。
1月27日、大本営、南方軍の任務を変更する(本土決戦が第一義、南方軍の作戦は第二義となる)。
1月27日、県庁の各部課を城岳および与儀周辺に分散移転する。
1月27日、野口雨情(62)没。
1月27日、B29、70機都心を爆撃。本土空襲本格化する。
1月31日、沖縄県の新知事島田叡が着任する。
1月31日、第32軍、第2次現地防衛招集を実施する(満17歳から45歳までの男子)。


沖縄の島守  三河地震60年目の真実  青い眼の人形 雨情の世界  ひめゆりの塔  火垂るの墓

八月の風船  あしたまた遊ぼうね  御女のさくら  大東亜の女神
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